鹿児島の川内に吹く「魔風」伝承! 死や災いを吹き込む謎現象/黒史郎・妖怪補遺々々

文・絵=黒史郎

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    春風が待ち望まれるこの季節、逆に望まれぬ災いをもたらす〝魔風〟の伝承を補遺々々いたしますーー ホラー小説家にして屈指の妖怪研究家・黒史郎が、記録には残されながらも人々から“忘れ去られた妖怪”を発掘する、それが「妖怪補遺々々」だ!

    魔の風が吹く

      風はわたしたちにとって、あらゆる指針を得るための大切な現象のひとつです。天候を予測し、季節を感じ、それに応じて着る服を替え、仕事の計画を立てました。これを書いている今は3月の半ば、穏やかな春風が吹くのを多くの人たちが心待ちにしていることでしょう。

     ただ、人々に望まれぬ風というものも、当然ながらあります。悪いものを運び、凍てつかせ、時には大暴れをして家を破壊する風です。そういった人畜に悪い影響をあたえる風は自然に生まれるのではなく、霊が吹かせているのだとするいい伝えがあります。

     鹿児島県薩摩郡川内市に伝わる【魔風】をいくつかご紹介いたします。

     

     入来村というところにあったいい伝えです。
     八重山の山裾に、金五郎とお市という夫婦が住んでいました。

     ある日のこと。魚商人から一夜の宿を乞われ、夫婦はこれを快く受け入れます。しかし、この魚商人、お市の美貌に惚れ、ふたりは不義の仲となってしまいます。それどころか、ふたりは金五郎を消して夫婦になることを約束しあい、彼を殺し、その死骸を家の後ろの芋穴に埋めてしまうのです。

     奇妙なことが起こります。
     翌日、だれが置いたものか、金五郎を埋めた場所の上に花筒が置かれ、そこに新しい紫花(キキョウか)が供えられていました。お市と魚商人は怪訝に思い、ある夜、金五郎の死骸を掘りだし、今度は八重山の奥にある炭窯に埋めました。

     それらの行動を村のだれかに見られ、怪しまれていたのでしょうか。
     ついにふたりの悪事は露見し、お上に捕らえられてしまいます。

     昔、磔刑に処される人は、後ろ向きに馬に乗せられて運ばれました。ふたりもそのように刑場へと引っ立てられていきました。

     途中、中之原という場所を下るとき、お市は役人に、こう願いました。「この世の名残りに歌をひとつ歌わせてほしい」
     役人は彼女の心根を察し、歌うことを許してくれました。
     お市は黒髪をなびかせ、悪びれた様子も見せずに声を張り上げ、ひとくさり、ふたくさり、朗らかに歌います。その姿を見て寄り集まった村人は涙したといいます。

     出水の刑場に送られたお市は磔刑に処され、微笑を浮かべながら死にました。
     その後、お市が引かれて行き来した道を9月9日に通ると不思議な風に襲われ、死ぬ者が幾人もいたといい、この風を【お市風】と呼んで恐れられたということです。

     

    彼女たちは風となった

     金具(かなげ)というところでは、鈴掛け馬の「じゃらん、じゃらん」と鳴り響く音がしたら、必ず逃げよと伝えていました。なぜなら、恐ろしい【おいつが風】が吹くからです。

     八重岡(やへつか)の横尾というところに「おいつが屋敷」という場所がありました。寂しい奥山の入口にあった、ある夫婦の住居跡だといいます。
     この夫婦の奥方「おいつ」は観音の申し子か小町の生まれ変わりかといわれるほどの美人。夫は馬喰(牛馬の売り買いをする人)で、殿様の牧場から名馬を盗んでは育てて売るということを生業にしている男でした。決して幸せな夫婦生活ではなかったと思われます。

     そんな時です。
     おいつは侘しい山暮らしと寂しさに耐えきれず、商いに来ていた魚買いと恋に落ちます。そして、夫を打ち殺し、炭俵に包んで埋めてしまったのです。
     これは密通に気づかれることを恐れての行動でしたが、夫の罪が明るみになりそうな状況であったことも理由のひとつでした。

     その後は魚買いと暮らしましたが、おいつは夫を殺した悪夢に怯え、埋めた炭俵のうえに弔いの線香を立てることがたびたびありました。そんな行動から世間は彼女に疑いの目を向けるようになり、やがて役人の調べが入ることとなって、ついに夫殺害の罪を自白したのです。

     掟にならい、おいつは機物(はたもの。磔のこと)にかけられることとなりました。
     後ろ向きに馬に乗せられた彼女は、どのような罪を犯したかが書かれた高札を胸に掛け、鈴を掛けた馬で引き回されます。高札には、これから衆人の見せしめとして罪の償いをさせるとも書かれていました。
     仕置き場所に連れていかれるおいつは何を思ったか、引き回されながら歌いだします。彼女は透き通った声をもち、歌もとてもうまく、そんな姿に涙する人もいたといいます。
     ですが、おいつを嘲って馬鹿にし、罵声を向ける者も少なくありませんでした。このような人たちを恨みながら、おいつは萩の尾の刑場で刑に処されました。

     萩の尾の竹藪には、彼女の塚があったといいます。そこでは、世を恨み、人を憎む心から、魔風となった彼女がときどき、人々に祟ったといわれています。

     

     川内地方には、夫を殺して風と化した女の伝説が多いようです。
     最初の例であげた入来村には他にも【おゆきの風】が伝わっています。

    「おゆき」という女性が夫を殺し、死骸をあちこちに移して埋めていたところ、その行動を不審におもった村人たちが調べ、事件が発覚。おゆきは磔刑に処されます。以来、命日の夜になると彼女の魂が入来峠の麓から出て、入来村副田のあたりを通ってどこかへ行くのです。そのときに吹く風がとても妙な不快な音を出したといい、これを【おゆきの風】と呼んだのだそうです。

     抗えぬ情であったとはいえ、彼女たちは不貞、殺人という不義を働いてしまいました。その罪と後悔、そして、この世への恨みと憎しみが、彼女たちの救われぬ魂を魔の風としたのでしょう。

     また、濡れ衣により魔の風となってしまった、次のような悲話もあります。

     北山付近にあった坂本寺に、北山殿の奥様が毎夜、主人の目を盗んでお寺参りをしていました。これは抜け参りといって、親や主人の許可なくお参りにいくことです。
     これを知った主人はおおいに怒り、奥様を殺すことに決めてしまいます。
     それまで何も語らなかった奥様は、命欲しさにいい訳、弁解などせず、このようにいいました。
    「私は不善をなすために行ったのではありません。その証拠に、私を斬り殺してください。私から白い血が出たら、私の心が清く、赤い血が出たら汚いという証拠です」
     主人は腹立ちまぎれに奥様を斬ると、彼女からは真っ白な血が流れ出ました。奥様はよからぬ思いで抜け参りをしていたわけではなかったのです。
     その可哀そうな奥様の霊は風となって北山に吹き、その風によって牛馬がころころ死んだといいます。北山の人たちは「北山十六願」という神を祀って、11月7日に精進料理を作り、北山殿の奥様の霊を祀ったそうです。

    ※参考にした資料では、話のタイトルはそれぞれ「おいつ魔風」「おゆき魔風」とされています。

     男も魔風と化す

     市比野の武田というところは四方が墓地に取り囲まれ、西側の崖下に四十余戸の民家が並んでいました。この付近の山麓に「左近允塚(さこんじょうづか)」があり、入来通に沿った田のなかには「左近允池」がありました。この地にも魔風の話が伝わっています。

     入来院氏(薩摩の士族)が、この地に入封したときのことです。当時、この地を有していたのは左近允某という者で、並々ならぬ勢力で入来院氏とは和睦しませんでした。
     入来院氏が白馬にまたがって従者とこの地を通ったとき、左近允は戸の隙間からそれを覗き見て、「入来院め、どこへ行く」といいました。
     この言葉を聞き咎めた入来院氏は、すぐさま矢を放ち、その矢は左近允の左目を貫きました。以来、左近允は死ぬまで入来院氏を恨んだといい、その跡目を継ぐY家では眼病に悩む子供が生まれたといいます。やがて、このY家の一族のひとりが左近允塚に石の鳥居を建立し、祠を建て、祖先に謝罪の祈りを捧げたといいます。

     また、武田の地では「白を忌む」といい、白馬白牛を引いて通ると、【左近允の魔風】に打たれると恐れました。これは、入来院氏が白馬にまたがっていたからだといわれています。  

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    参考資料
    鹿児島県立川内中学校『川内地方を中心とせる郷土史と伝説』

    (2022年4月5日記事を再掲載)

    黒史郎

    作家、怪異蒐集家。1974年、神奈川県生まれ。2007年「夜は一緒に散歩 しよ」で第1回「幽」怪談文学賞長編部門大賞を受賞してデビュー。実話怪談、怪奇文学などの著書多数。

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