生者による死者の語りを巡る「幽霊」対談! 「日本怪異幽霊事典」×「教養としての最恐怪談」

関連キーワード:

    この夏、時を同じくして世に放たれた『日本怪異幽霊事典』と『教養としての最恐怪談』。幽霊とはなにか? 怪談の核とはなにか? をひもといた両書の著者による、最恐の幽霊対談が実現!

    幽霊事典×最恐怪談! 両筆者が徹底対談

     笠間書院より発売された『日本怪異幽霊事典』。
    『日本怪異妖怪事典』シリーズ、『日本現代怪異事典』をはじめ、怪異情報を網羅する大著を発信しつづける作家・朝里樹(あさざといつき)さんの新刊だ。妖怪、現代怪異ときて次は幽霊……となると一見自然な流れに思えるが、「幽霊事典を出すなんてとんでもないことだ!」と驚きをかくしきれない人物がいた。
     オカルト文化研究家にして、怪談師としても活動する吉田悠軌(よしだゆうき)さんである。
     吉田さんはこの7月、古今の“最恐怪談”を厳選してピックアップし、その怪談がなぜ怖がられ、語り継がれてきたのかを紐解いた力作『教養としての最恐怪談 古事記からTikTokまで』を発売する。いわば、いま日本でもっとも怪談文化を深掘りしている人物のひとり。その吉田氏いわく「幽霊だけをまとめた事典をだす大変さは、妖怪や怪異の比でははない」のだそうだ。一体どういうことなのか。

     幽霊事典の著者×最恐怪談の著者という気鋭の幽霊識者による対談で、幽霊の恐ろしさが見えてきた。

    対談を行なう両識者の著書。奇しくもどちらも「古事記から現代まで」をうたうシンクロニシティ。

    究極の問い「『幽霊』ってなんですか?」

    吉田悠軌 今日はよろしくお願いします。事前に『日本怪異幽霊事典』を拝見しましたが、大変な労作ですね。私も『教養としての最恐怪談 古事記からTikTokまで』という怪談の歴史的な部分を整理した本を書きまして、対談がとても楽しみでした。というのも今日の対談は「幽霊とはなにか?」というテーマでトークできるレアな機会になると思ったからです。
     じつは何をもって「幽霊」と定義するかって、ものすごく難しい問題なんですよ。私自身ずっと悩んでいるんですが、この悩みが実話怪談界の人にもなかなか共感されない。

    朝里樹 そうですね、幽霊とその他の怪異、妖怪の線引きはとても微妙です。この事典では「幽霊とは、死者が何らかの現象を起こしたものである」と定義してその例を集めるようにしましたが、ただそう定義すると、じゃあ船幽霊やウブメはどうなんだという問題がでてきてしまいます。
     船幽霊は海で死んだ亡者が、ウブメは産褥で亡くなった女性が姿をかえて現れたものですが、いまは一般的に妖怪として扱われています。ただ幽霊と妖怪を区別したのは明治以後のことで、それ自体が現代的な分け方だともいえます。
    「人間が死後に姿を現したものが幽霊。それ以外の、個人名をなくして一般化されたものが妖怪だ」というのが一般的な仕分け方ですが、そうすると船幽霊、ウブメは死者ではあっても生前の個人名を失っているので妖怪だということになるわけです。『幽霊事典』では現代人的な視点での幽霊を集めようと思ったんですが、でも現代人の視点でも幽霊/妖怪の境目はけっこう曖昧なんです。
     また幽霊の定義って、時代によってもかなり変わるんですよね。

    「日本怪異幽霊事典」では死者(元生者)が起こした現象(が生者によって感知された)を幽霊として採集していった。
    『日本怪異幽霊事典』の著者、朝里樹さん。

    吉田 私も拝読して「生きていた人間が死後に怪異となったもの」という広い定義でまとめられたのかなと思っていたんですが、そこでまた問題になるのが、その「歴史的にみて幽霊の定義が一定でない」という問題です。
     何を幽霊とするかの定義は、古代から現代まで時代によって虹色のように変わっているところがあります。そうすると、古代の幽霊を現代人の視点で語っていいのか? 現代人からみてそれは幽霊なの? というような問題がでてくる。
     ひとまず現代人の視点に限定すれば、おそらく幽霊とは「かつて生きていた人間が死んだ後に、ビジュアルとしては生前の似姿であらわれたもの」といえると思いますが、ただそうなるとあらたに問題になるのが、その現れたものが個人として特定されるかどうか。特定できなかった場合は「かつて生きてた人間」かどうかわからないわけで、じゃあ定義上それを幽霊といっていいの? ということになる。たとえばヒト型のものが現れる怪談は現代でもけっこうあるんですが、ヒトの形をしているだけで人間ではない、なにか変な存在だという場合もある。

    『教養としての最恐怪談』著者、吉田悠軌さん。

    現代人、なんでもかんでも幽霊のせいにしがち説

    ――そもそも朝里さんはなぜ幽霊事典をまとめようと思ったんでしょうか? ものすごく大変な作業だと思うのですが。

    朝里 前作の『続・日本現代怪異事典』という本で現代の怪異をまとめたのですが、調べていると、現代の日本人は怪異が起こるとなんでもかんでも幽霊のせいにする傾向がすごくあるなと思ったんです。たとえば「音がした」「声が聞こえた」というだけで、そこで誰かが死んでいるかどうかもわからないのに、全部幽霊のせいということにしてしまう。そこで時代をさかのぼったら日本人の幽霊観はどう変わっていくんだろうという点に興味が湧いたんです。
     あとは、今まで妖怪の事典はたくさんあるけれど、幽霊の事典はない。そこで差別化できるかなというビジネス的な思惑もありました(笑)。

    吉田 「妖怪事典はあるけど幽霊事典はない」というのは本当に重要な指摘で、正直、定義するなら妖怪のほうがずっと簡単だと思うんです。極論、学者がこれは妖怪だと認めれば妖怪だ、的なところがあって、たとえば日本民俗学の父といわれる柳田國男は、幽霊を民俗学の対象から省いてしまいました。それは幽霊があまりにも一般的に「文化の表象」として根付いているために、逆に定義が難しかったからだと思います。
     その幽霊がこうして一冊にまとめられて、しかも年代記風に、古代、中世、近世、近代、現代と章立てしてあるのもすごいことです。幽霊の定義が時代によって変わっていくんだということがとてもわかりやすくなっています。

    『幽霊事典』の項目は古代から現代まで、時代ごとに分けられる。

    朝里 そうですね、古代だと「幽霊」という言葉がいまと全然違うんですが、近世になると創作由来の幽霊が多くなり、また、古代から近世頃までは中国の話が翻案されるなどしていたので、その影響が大きかったりします。そういう歴史や変遷を年代ごとにまとめてみようというのは最初からの構想でした。
     日本人が、古代から現代まで「死んだ人間が生きている人間に観測される」という状態をどう表現し記録してきたのか。その事例を、それこそ古事記から現代の小説までひたすら集めたという感じです。

    吉田 創作の影響というのもとても大事なポイントです。怪談研究者の田部井隼人さんとも話したことがあるんですが、幽霊って結局は「文化表象」であって、そこには創作の影響がとても強い。中世であれば能、江戸時代ならば四谷怪談など、よく知られた創作に影響されて、我々のような一般人の「幽霊を見る」という体験ができていく。
     幽霊を見るというのも厳密にいえば「ヒト型のなにかを見る」という体験なわけですが、現代のアメリカ人であればそれをエイリアンだと思うでしょう。やはりそこには創作や文化的なものの影響が先にあるという順序なんじゃないか。なので、幽霊の目撃談・体験談だけでなく、創作にあらわれる幽霊に注目し、しかもそれを年代別にするというスタイルはこの事典の意図にとてもマッチしていると思います。
     ところで、創作はどの程度まで採録したんでしょう? 特に現代なんか小説、漫画、アニメ、映画とすごい量の創作があって、キリがなさそうです。

    朝里 そこは締切との兼ね合いもありました(笑)。あとはやはり影響の大きな作品からですよね。現代ならば「リング」の貞子、「呪怨」の伽椰子、また「着信アリ」の水沼美々子あたりは必ず入れたい。たとえば貞子は、登場以降あきらかに「白い服で髪が長い幽霊」を見た話が増えていて、幽霊には創作の影響が強いといういい例になります。
     そのように優先順位を決めて、また大きく現代は何件、近代は何件と目安をきめて、紙面と時間の収まる範囲で決めていきました。

    『日本怪異幽霊事典』

    アクロバティックサラサラは幽霊か?!

    ――朝里さんの著書の魅力ですが、今回も索引が非常に面白いですね。「五十音順」だけでなく、「死者の表現」「行動・現象・生者との関わり」という3つの引き方ができて、それによって時代別とはまた違った共通項などが発見できそうです。

    朝里 「死者の表現」でいえば、古くは「幽霊」という言葉自体があまり使われておらず、その表現の変遷も面白いなと思ったところから索引にしました。たとえば古代の説話集では霊とかいて「りょう」というんですが、中世になると「れい」とも読むようになる。そうした表現が現代まで生き残っているのも面白いですね。また「怨霊」が割と新しい言葉だったり、現在だと同じように感じる「怨霊」と「御霊」が別の意味で使われていたりと個人的にも面白い発見がありました。

    吉田 「死者の表現」と「行動・現象・生者との関わり」は、幽霊をみた人がどう感じたのかというまとめになっています。やはり幽霊は見る側がどう見たか、生者との関わり方がポイントですね。

    朝里 そうなんです。やはり死者は、必ず生きている人間が観測しないと記録に残らない。つまり生きた人間と関わって初めて幽霊が記録に残る。何らかの形で生者が観測したという点が大事なのかなと思います。

    吉田 幽霊は主観的なものなんですよね。たとえば『幽霊事典』にはアクロバティックサラサラ、アクサラも載っています。アクサラが幽霊? と思うけれど、実はアクサラが話題になった当時のスレッドで、ひとりだけ「自殺した女が……」という書き込みをした人がいるんです。アクサラはあの自殺した女なんじゃないかという考察ですが、この書き込みがあることでアクサラは幽霊事典に載せることができる。

    アクロバティックサラサラは『教養としての最恐怪談』でも一項を立てて解説される。現代怪談を語るうえで避けられない重要なキャラクターだ。

    朝里 ネット怪談からはアクサラのほか姦姦蛇螺(カンカンダラ)なども載せているんですが、どちらかといえば両者とも妖怪側かなという気はしますよね。ただ「幽霊とは生者が死者だと観測したもの」という定義からすると、上のふたつは「『人が死んでそういう存在になった』と観測した人がいる」ことになるので事典に載せていきます。

    吉田 なにを「幽霊」とするか。本当に難しくて面白いですね。逆に、誰も死んだ人間だといっているわけじゃないけど載せた例や、迷った結果載せなかったものもありますか?

    朝里 迷ったものだと「煮て食われた幽霊」というのがあって、幽霊だといわれていたものを矢で射たら正体はアオサギだったので煮て食べた、という話です。一応幽霊とついているから載せましたが、ちょっと微妙ですね。
     現代怪談だと、正体が微妙なものに「裏S区」にあらわれる霊があります。これを死者として扱うかどうか迷いましたが、明確な正体が語られていないので外しました。また「リゾートバイト」は死者を生き返らせる怪談なんですが、生き返らせる死者ではなくそこで翻弄される生者のほうが怪談の主体なので、採用していません。

    吉田 そして先ほどの話で、現代は「それ昔なら幽霊にはしないよ」というものまで幽霊だと言い出すところがあります。年代ごとの幽霊をまとめた朝里さんから見て、「幽霊だ」と思いがちなのは古代人と現代人、どっちでしょう?

    朝里 現代だと思います。近世だと怪異現象はキツネやタヌキのしわざ、あるいは天狗や鬼にさらわれた、だとかいろいろな解釈があったんですが、今はそこに該当する生き物も、鬼、天狗もいなくなり、全ての原因が幽霊に集約されているようです。

    吉田 怪異を解釈するツールが「死後の存在」しかなくなってしまったんでしょうね。

    朝里 死後の存在か、あるいは陰謀論的なものか。現代は、妖怪の実在は否定されがちだと思うんですが、一方で幽霊は割と信じられていますね。

    『教養としての最恐怪談 古事記からTikTokまで』

    幽霊を見た人の「語り」こそが幽霊である……

    吉田 なにかヒト型の怪異があらわれたら幽霊だ、とそんな簡単なものじゃないことがよくわかります。この点について、事典にものっている「アカングァーマジムン」を例にうかがってみたいんです。
     アカングァーマジムンは沖縄に伝わる赤子の死霊とされるもので、これに股を潜られると命を奪われてしまうという。ところがよく似た怪異に「ウァーグァーマジムン」があります。こちらは股を潜って命を奪うところまで同じなんだけど、正体は子豚の化け物だとされている。この場合、『幽霊事典』への採用はどうなりますか?

    朝里 「死者が何らかの現象を起こしたもの」というこの本での定義から、アカングァーマジムンは入れましたがウァーグァーマジムンは入っていません。

    吉田 その線引きをしないとあらゆるものが入ってしまいますもんね。でも、これって実は同じものを指していると思いませんか? つまり、ふたつのマジムンはどちらも、死産や間引きや生後すぐ亡くなった赤子、もしくは胎児や水子の怪異ではないか、とも想像できる。
     アカングァーマジムンははっきり赤子といっているけれど、おそらくウァーグァーマジムンも本当は胎児だとわかっていながら子豚だといっている、というのが私の主張です。同じ現象がヒトの霊とされたり、動物の化け物だと語られたりすることがあるわけです。
     ここで私が思うのは、同じ怪異が別の語り方をすることで、幽霊にもなるしそれ以外のものにもなる。つまり大切なのは体験者の語り(ナラティブ)だということです。あることを体験した人が、解釈して再構成して「幽霊だ」と語ったものが幽霊になる。妖怪の場合は、あらかじめ語り手が「これは妖怪だ」とカテゴライズしていないナラティブであっても後から妖怪と区分するわけで、そのあたりが幽霊と妖怪の微妙な違いかと思います。

     私のように実話怪談をやっている者は体験者のナラティブにこそ興味があり面白いと感じていて、どちらかといえば妖怪よりも幽霊のほうが好きなんです。妖怪好きと幽霊好きはオカルトの世界でも割と分かれますが、その差はこのあたりにあるんじゃないか。体験者の語りそのものが好きなのか、それよりも科学的統計的にまとめたいという興味が勝るか。どちらがいい悪いという話ではないですが、やっぱり実話怪談好きは妖怪より幽霊が好きですよね。

    ――妖怪のように名づけて立項するというこの事典の取り組みは、幽霊の場合はこれまで禁じ手だったのでは?

    朝里 なので、この事典では項目名を種族的な名前にしないように気をつけたんです。先ほどの「煮て食われた幽霊」のように、その現象だけに当てはまる、あくまで個人に帰属するような名付けにしています。

    吉田 どこまでを幽霊とするかの件ですが、実話怪談では、たとえばお盆に家のなかに蝶々が入ってきて、仏壇にとまった。それをみて家族が「ああおじいちゃんが帰ってきたね」、というような話があります。実際におじいちゃんの姿が目撃されたわけではないですが、朝里さん的にはこれも幽霊にカウントされますか?

    朝里 見た人がそれを幽霊だと信じたのであれば、ですね。

    吉田 では微妙な表現で「おじいちゃんの幽霊」ではなく「おじいちゃんの魂が蝶々にのってきたんだね」という言い方だったらどうでしょう?

    朝里 うーん微妙ですが……。でも死者が帰ってきたととらえているなら幽霊かな。項目名は「蝶にのって帰ってきたおじいさん」とかで。

    ――どこまでいくと幽霊事典に採用されなくなるのか、その線引きを突き詰めてみたくなりますね(笑)

    吉田 いろいろお話ししてきましたが、この対談ではとにかく、幽霊しばりで500ページの本を出すなんてすごいことなんだ、怪異より妖怪より幽霊事典がずっと大変なんだ、ということが伝わればと思います。誰かがやらなければいけなかったことを朝里さんが今回やってくださったんですが、暴挙ですよ。もちろんいい意味で(笑)。

    対談を終えて……

    朝里 吉田さんの「幽霊はナラティブである」という視点は、怪談作家として実際に怪異を体験した人々に直接お話を取材している吉田さんならではの説得力があり、大変面白かったです。特に妖怪と幽霊の違いについては、どちらも収集した経験がある身としては、とても興味深く聞かせていただきました。

    吉田 朝里さんの『日本怪異幽霊事典』は非常な労作であり、今後とも幅広く活用されるべき良書です。特に怪談および実話怪談が好きな人には必携の一冊。「幽霊」とはすなわち誰かが幽霊について語った「怪談」に違いないからです。そうした怪談群の歴史を整理するという意味では私の新刊『教養としての最恐怪談』とも共通するため、恐縮ながら多くの人に併読していただきたく思います!

    「日本怪異幽霊事典」(笠間書院) https://www.amazon.co.jp/dp/4305710153
    「教養としての最恐怪談 古事記からTikTokまで」(ワン・パブリッシング)https://www.amazon.co.jp/dp/465120452X/

    吉田悠軌

    怪談・オカルト研究家。1980年、東京都生まれ。怪談サークル「とうもろこしの会」の会長をつとめ、 オカルトや怪談の現場および資料研究をライフワークとする。

    朝里樹

    1990年北海道生まれ。公務員として働くかたわら、在野で都市伝説の収集・研究を行う。

    関連記事

    おすすめ記事