氷漬けにされて見世物になっていた! 獣人UMA「ミネソタ・アイスマン」の基礎知識
毎回、「ムー」的な視点から、世界中にあふれる不可思議な事象や謎めいた事件を振り返っていくムーペディア。 今回は、1960年代後半にアメリカ・ミネソタ州で見世物にされていた氷漬けの獣人UMAを取りあげる
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昭和怪奇が現出したかのような「見世物小屋」。蛇女、人間ポンプ、南国の怪物、河童の子などは、今はもういない。
人生は後悔の連続であるが、ことあるごとに僕が後悔してしまうのは、「見世物小屋」に一度も足を踏み入れないまま大人になってしまったことである。
いや、正確に言えば、昨今も花園神社で「酉の市」の夜に興行している今様(?)の「見世物小屋」には入ったことがあるのだ。しかし、僕が小学生だった70年代後半は、渋谷区・氷川神社の秋祭りの縁日にはホンモノ(?)の「見世物小屋」が毒々しくも魅惑的な絵看板を掲げ、にぎやかに客を呼び込んでいた。その気になれば毎年でも見物できたし、クラスメイトの半分ほどは実際にオゾマシイ出し物を堪能し、祭りの夜にその感想を興奮気味に語っていたのである。
ところが我が家では、特に母親から「絶対に見世物小屋なんぞへは入るな」と厳しく釘を刺されていた(同じように「見世物小屋立ち入り禁止令」を言い渡されている子も多かった)。「ああいう小屋の見世物は惨酷で差別的だから」ということなのだが、実際、80年代初頭になるとPTAが本格的に騒ぎ出し、秋祭りの縁日から見世物小屋を完全に締め出してしまった。
従順だった幼少期の僕は母の教えを忠実に守り続けていたために、結局、「見世物小屋」体験の貴重な機会を永遠に失してしまったのである……というのは半分嘘で、僕は親が「してはいけない」ということはたいていしてきたガキだった。祭りの度、友達と一緒に「入ってみようぜ」と小屋の木戸口までは行くのだが、オドロオドロしい絵看板の前で躊躇し、さらには一足先に見てきたクラスの女子たち(「見世物小屋」に平気で入っていくのは圧倒的に女子が多かったと思う)の「す、すごいのよ! 『蛇女』がニワトリを生きたまま食べちゃうんだから! ブシャーッて血が飛び散るのよ!」などと震えながらまくしたてるのを聞いて二の足を踏み、「やっぱり今夜はやめとこうか……」と逃げ腰になっていたのだ。
つまり、毎度毎度ビビッて入れなかったのである。今となってはまったく痛恨の極みで、もしもタイムマシンがあるなら当時に戻って、木戸口で戸惑っている自分の背中を思いっきり蹴とばしてやりたい。
今回と次回は、僕の「見世物小屋」の思い出(というより、「見世物小屋に入れなかった」という思い出)に絡めつつ、昭和の「見世物小屋」とはなんだったのか?……といったことについて語ってみたい。
「入ってないくせになんで語れるんだよ?」と思われるのは当然だが、資料としては戦後の「見世物小屋」の内実を詳細に語った稀有な書籍である『見世物小屋の文化誌』(鵜飼正樹ほか・編著/新宿書房/1999年)を参照する。この本、当時の「見世物小屋」の入り口で指をくわえて眺めていただけの僕のようなハンパ者が読んでも、当時の記憶の「よくわからなかった部分」について「ああ、そういうことだったのか!」と腑に落ちる発見が随所にあるのだ。まだ古書での入手が比較的容易な本なので、同世代の同好の士にはぜひご一読をお勧めしたい。
渋谷・広尾・恵比寿のちょうど中間地点に位置する氷川神社に「見世物小屋」が出現するのは、毎年の秋祭りの二日間、昭和の時代は「敬老の日」と決まっていた9月15日と翌日に開催される縁日の夜だった。いや、「毎年」というのは正確ではない。「見世物小屋」が興行するのはほぼ一年おきで、他の年には同じ場所に「お化け屋敷」が現れるのである。つまり、今年の縁日に「見世物小屋」が設営されれば、翌年は「お化け屋敷」になり、また次の日には「見世物小屋」がやってくる……という形だったのだ。子ども心に「なんでそういうことになってるんだろう?」と不思議だったが、おそらく「見世物小屋」の興行主と「お化け屋敷」の興行主の間でそういう取り決めをし、「かわりばんこにやろうね」と話をつけているのだろうと思っていた。
ところが! なんと「見世物小屋」と「お化け屋敷」は同じ興行師が運営していたのだそうだ。「見世物小屋」を各地で展開する旅回り芸人の一座を「太夫元」、あるいは「荷主」と呼ぶそうだが、この人たちが「ここの縁日では今年は『見世物』をやろう」とか「『お化け屋敷』の方が客を呼べそうだ」と判断し、その都度、出し物を変えていたそうだ。ちなみに、興行師たちの間で「お化け屋敷」は「藪」という符丁で呼ばれていたという。「あそこの縁日は子どもが多いから『藪』の方がウケる」みたいな使い方をしていたらしい。
こうした内実を知って少しうれしくなってしまった。「見世物小屋」に足を踏み入れることができなかった僕も、「お化け屋敷」には何度も入っている。つまり、一応は僕も「見世物小屋の人たち」が披露する出しものを、そうとは知らずに目にしていたわけである(だからなんだ?)。ともかくも、「見世物小屋」と「お化け屋敷」は切っても切れない関係にあったのだ。
氷川神社の「お化け屋敷」で印象に残っているのは、入り口部分のやたらと凝った装飾だ。ろくろっ首や一つ目小僧が描かれた怪奇感満点のド派手な絵看板を掲げ、電気仕掛けなのか人が動かしているのか知らないが、看板の下あたりのテントの隙間から、妖怪じみたバケモノの人形が「ギャー!」という叫び声の音響に合わせて飛び出してくる。その前にはうっそうとした「藪」があり、いかにも幽霊が似合いそうな柳の木が二本立っていた(たぶん藪も柳も作り物だったのだと思う)。その間をくぐって進むと真っ赤な欄干の太鼓橋がかかっている。この橋を渡って小屋の中へ入っていく仕組みなのである。二日で撤収してしまう仮小屋の「お化け屋敷」とは思えないほど手が込んでいて、なんだか映画のセットみたいだった。
この「入り口の手前に赤い太鼓橋がある」というのは、実は古典的なお化け屋敷の定番スタイルで、かつてはどこのお化け屋敷もこれを踏襲していたそうだ。そういえば、昔の遊園地のお化け屋敷にも入り口に橋を設けていたところが多かったような気もする。「橋を渡る」という体験をさせることで、客に「ここから先は『非日常=あの世』だよ」ということを印象付ける演出なのだという。
『見世物小屋の文化誌』には、こうした古典的な仮小屋のお化け屋敷のタンカ(木戸番が客を呼び込むときの台詞)が記録されている。これがなんとも素晴らしいので、ちょっと引用させていただく。
あなたが見たけりゃ 僕も見たい
君が見たけりゃ 私も見たいの
あなたと私の散歩道
お幸せな方は おててつないで
この赤い橋からお入りいただきましょう
お化けがあなたを呼んでいる
お化けと遊ぶ数分間
はい いらっしゃい いらっしゃい!
(安田興行、安田里美さんのタンカ。『見世物小屋の文化誌』より)
『見世物小屋の文化誌』によれば、この本が刊行された1999年の時点で、「見世物小屋」を手がける興行社は全国でわずか4つ。最盛期の昭和30年代、つまり1950年代なかばから60年代にかけては30を超える興行社が存在したそうだ。これが70年代に入ると急速に数を減らしていく。99年の時点で4社あったのが、現在はたった1社のみ。これも諸事情で昔ながらの見世物を舞台に乗せるのは難しくなり、今は小劇場劇団などと連携し、「かつての見世物小屋の雰囲気を許容範囲内で可能な限り再現したようなパフォーマンス」といった、ちょっと複雑な概念のメタ的なパロディーのような出しものが中心になっている。この現存するメタ的「見世物小屋」(?)は僕も実際に見ているので、次回に少し語ってみるつもりだ。また、「見世物小屋」の歴史や衰退についても、次回に考察する。
さて、そもそも「見世物小屋」とはいかなるもので、そこでいったいなにを見せていたのか?……ということについては、1928年に刊行された朝倉無声の名著『見世物研究』(長らく「幻の書」とされていた本書は2002年にちくま文庫から刊行され、現在も古書での入手が可能)が下記のようにシンプルにまとめている。
・技術(手品、軽業、曲独楽=独楽を使った芸、力曲持=重いものを怪力で操る芸などの特別な技術の披露)
・天然奇物(珍禽獣=珍奇な動物など、異蟲魚=グロテスクな寄生虫など、奇草奇木=珍奇な植物などの展示)
・細工類(籠、貝、紙、菊などを使った細工物の展示)
これら3種の基本的な出しもののほか、女相撲(半裸の女性による相撲)なども定番だったという。ちなみに、戦後はこれに加えてストリップショーなども行われていたそうだ。
上記3つのうち、訓練で培った技術を見せるもの、そして貝細工や紙細工など、手先の器用さを利用して凝りに凝った作品を見せる出しものに関しては説明不要だと思うが、問題なのは「天然奇物」である。「世にも珍しい不思議な生きものをお見せしましょう」といった、いわば「UMA」ネタの出しものなのだが、ほぼ大半はインチキだったらしい(こうしたインチキで客を呼び込むことを業界では「コマす」「ガマす」といっていたそうだ)。
例えば牛の内臓を裏返して内部に水を入れ、気味の悪いブヨブヨの肉塊をつくって展示し、「さぁ、お立合い! 南国のジャングルで発見された顔も手足もないキッカイな生き物! 世紀の大発見だよ!」といった口上で客に見せるのは常套手段だったという。また、ただの岩に服を着せただけのものを舞台に置き、「これが噂の『夜泣き石』(夜になると泣き声を発する伝説の石)だよ!」として見せるのも定番だったらしい。どこにでも転がっているさまざまなモノにちょっとした加工を施し、いわくありげな「未知の生物」や「霊物」のようなものに仕立てて見物させるわけである。
また、これについてはご存知の方も多いと思うし、「見世物小屋」が社会から排斥されることになった一番の原因でもあるのだが、障害者の芸を見せる慣習も長らく存在した。これは日本に限らず、中国の「見世物小屋」、アメリカの「サイドショー」、ヨーロッパの「フリークショー」など、古今東西の仮設テントの見世物には伝統的に組み込まれていたもので、当然、現在ではどこの国でもこうした興業は、少なくとも表向きには難しくなっている。「障害者の自活手段であり、活躍できる場だったのだ」といった議論もあるようだが、その判断は当事者の声を反映していなければまったく無意味なので、僕などがあれこれ言えるような問題ではない。
さて、最後に1999年の時点で残っていた4つの「見世物小屋」興行社と、その特徴(最大の売り物としていた芸)を紹介してみたい。
・「お峰太夫の大蛇遣い」の大寅興行
・「河童の太郎ちゃん」の団子屋興行
・「人間ポンプ」の安田興行
・「逆さ踊り」「紙切り」「牛娘牛男」の多田興行
現存する唯一の興行社が大寅興行で、これについては2012年に公開されて話題になったドキュメンタリー映画『ニッポンのみせものやさん』で、その活動の一端を知ることができる。安田興行についても、やはりドキュメンタリー映画『旅の芸人 人間ポンプ一座』(1997年)で、この一座の最後の公演を追体験できる。
ところで、各興行社について詳しく書かれている『見世物小屋の文化誌』を読むと、小学生時代に僕が見た(いや、見なかった)氷川神社の「見世物小屋」は、どうも大寅興行のものだったらしい。70年代後半のことなので、当時はこの4社以外にも興行社は残っていたと思うが、とにかくいつも「蛇女」を最大の売り物にして興行していた。見てきた子の話によれば、蛇に憑りつかれているという触れ込みの白装束の美しい「蛇女」が蛇とたわむれた後、その蛇や鶏を喰いちぎるという芸だったそうだ。「蛇女」(正確には「蛇姫」といっていたようだ)といえば大寅興行の「お峰太夫の蛇遣い」がもっとも有名だったらしいので、やはりあれは大寅興行の小屋だったのかも知れない。
機会があったら取材してハッキリさせてみたいとも思うのだが、子どもだった当時から今に至るまで、見ていない「見世物小屋」の光景を何度も何度も頭のなかで夢想してきたので、僕の脳裏のなかには「蛇女」のイメージがありありと存在している。ときおり、「見ていないというのは勘違いで、本当は僕は見世物小屋に入ったんじゃなかったっけ?」などと記憶が改竄されそうになるほど、見ていないはずの美しい「蛇女」の捏造された「思い出」が刻まれているのだ。その懐かしいイメージをそのままにしておいた方がいいような気もするのである。
初見健一
昭和レトロ系ライター。東京都渋谷区生まれ。主著は『まだある。』『ぼくらの昭和オカルト大百科』『昭和こども図書館』『昭和こどもゴールデン映画劇場』(大空出版)、『昭和ちびっこ怪奇画報』『未来画報』(青幻舎)など。
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