幼いころに天狗と遭遇! 「水の側に行くな」というお告げの真意は…/漫画家・山田ゴロの怪奇体験
怪談師としても活躍中の漫画家・山田ゴロ氏。その穏やかな語り口の怪談の多くは、自身が体験してきたものだ。幼いころから続く怪奇体験を語ってもらった。
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空を飛んだり、水上を地上と同じように歩いたり、自在に姿を消す……そんな術法をこともなげに駆使できたひとりの男がいた。 「神変極りなき通力の所有者」といわれた高橋宥明(ゆうめい)である。 彼の術法のルーツを求めて、筆者は山形へと飛んだ──。
目次
天下の奇書ともいうべき『高橋宥明(ゆうめい)上人神変記』には、宥明上人が空を飛んで高野山に詣でたり、水上を地上と変わらず歩いたり、自在に姿を消す隠形やテレポーションを行じたり、種々の物品引き寄せを行ったりといった超常的な逸話がふんだんに盛り込まれている。
この本を書いたのは陸大卒のエリート軍人で、日露戦争時には第四軍第六師団の参謀を務め、その後、大佐で退役した大橋博吉だ。大橋は一時期、宥明と一緒に暮らしており、彼の兄弟姉妹なども宥明と親しく交流していた。
その大橋が、自分の目でじかに見た宥明の数々の不思議を思い出すままに綴ったのが本書で、執筆の動機は、大橋の参禅の師で近代禅宗の巨匠として知られた原田祖岳から記録しておくよう勧められたことによる。
祖岳は序文を寄せているが、それによると大橋以外の二、三氏からも宥明のことは聞かされており、「神変極りなき通力の所有者」だと確認した。宥明が六神通のうちの天眼通、天耳痛、神境通、他心通に「通達して居られたことは明白」だと断じているのである。
山形県の僻村・荻村字赤山(おぎむらあざあかやま)で農業に従事する、文字の読み書きもできない素朴な一農夫だった宥明が、なぜ「神変極りなき通力」を自在にふるえるようになったのか。本人によれば、山中で弘法大師と出会い、不思議な力を授かったからだという。
そのため、大橋はもとより、宥明の足跡を訪ねた飛騨福来心理学研究所の山本建造・貴美子夫妻も空海の弟子と信じ(貴美子は宥明が建造に神懸りして自分は空海の弟子だと語ったと書いている)、地元で宥明を調べてきた『吉野文化史資料』編集長で高橋宥明上人顕彰会発起人の加藤茂さんもこの説を踏襲している。
けれども、宥明が駆使したとされる数々の術法は、明らかに山人(さんじん)界(天狗界)のそれに属している。詳しくは後述するが、宮地水位や仙道寅吉、国安仙人などの証言に照らしても、このことは疑い得ない。逆に空海とつながる部分は、筆者の知るかぎりほぼ皆無といってよいのだ。
そこで宥明の背景を探ることを第一の目標として、今回の取材にはひとりの霊媒に同行を願った。その霊媒は、四国高知の鴻里三宝大荒神社(こうのさとさんぽうだいこうじんじゃ)を預かっている梨岡京美代表で、筆者の知見の範囲では、まず当代随一の霊視霊能者といってよい人物だ。この梨岡霊媒に、宥明の師とコンタクトをとってもらおうというのが山形取材の眼目で、結果がどうなるかは現地に行ってみなければわからなかったが、狙いはみごとに成功したのである。
現地ルポを記す前に、宥明の経歴を書いておこう。
安政5年(1858)11月9日、宥明は山形県南東部の東置賜郡(ひがしおきたま)郡 荻村字赤山で生まれた。父は高橋荘衛門、母はハルという。道四郎と名づけられた宥明は、「生まれてより少々足りない方」(大橋博吉)で、無邪気でごく正直なタチの男だったらしい。
仙縁を得る前に嫁をとって子もなしていたが、神通力を得てからは家を出て東北各地や東京、京阪神、紀州などを放浪する日々を送ったようで、長女マスさんは孫娘のいね子さんに「百姓仕事は男手がなく大変だった」と語っていたという(加藤茂「高橋宥明上人を訪ねて 追補版」)。
東置賜郡は『日本書紀』に登場する陸奥国 優嗜曇(うきたみ)郡のことで、かつての蝦夷地だ。優嗜曇という地名もアイヌ語に由来するといわれる。宥明が出生した赤山は、その東置賜郡の最北端にあたる。赤山をふくむ荻村は、折り重なる山の谷合いにわずかに開けた寒村で、農業といってもごく小規模な田畑を営む程度の耕作地しかなく、その農業もたびたび干害や冷害に見舞われてきた。稀代の霊能者は、このような厳しい土地で生まれ育った。若いころの記録は、右に述べた以外は何も伝わっていない。
人生の転機となったのは、明治22年秋、宥明32歳のときだ。この年、山を越えた城下町の上山(かみのやま)町にムシロを買いに出かけた宥明は、帰途、山中の峠で大きな岩の上に立つ白髭の老人と出会った。老人から上山まで(別の記録では坂の上まで)自分を背負っていけといわれた宥明は、買ってきたムシロを下ろして老人を背負い、いわれた場所で老人を下ろした。
それからムシロを取りに岩までもどると、ムシロがない。しかも不思議なことに、上山で下ろしたはずの老人が自分より先にその場にもどっており、びっくりして頭を下げると忽然とムシロが現れた。さらに老人から「これを喰え」と妙な物を口の中に押し込まれ、そのまま気絶した。
その後、意識をとりもどしたとき、懐に梵字で書かれた巻物があった。この出会いに、宥明はいたく感激したらしい。家にもどると「俺は今、神様からお宝をもらってきた」と家人に告げて5〜6丁先の酒屋に走り、御神酒を求めて神様にお供えした。その後、「夜寝につくと、巻物の梵字の一行一行を、夢ともなく現ともなく教えられ、その教えられた通りを昼間一々やってみると、教えられた通りに出来た」というのである。
このときの神霊との出会いは、大橋博吉の記述と、大橋の知人で昭和の初めころに宥明の足跡を訪ねて関係地を回った京都の木原裸院(りいん)の記述(木原が大橋に送った長文の手紙で、これも『高橋宥明上人神変記』に収載)に若干の違いがあるが、老人との出会いの場や、老人から未知の食べ物を口に押し込まれたこと、老人から巻物を授かったことなどは一致している。喜び勇んで家にもどり、御神酒を買いに走ったことも、長女のマスさんが孫娘のいね子さんに語り聞かせており、その酒屋は酒町の芳賀商店だということも、前出の加藤さんが突き止めている。
この一件以来、宥明は読めない梵字が読めるようになり、冒頭に記したような空中飛行や水上歩行、隠形、透視などさまざまな霊術が駆使できるようになったというのである。
宥明が老人と出会った岩は木原裸院によって仙縁石と名付けられ、「宥明上人仙縁石」と彫った石柱も建てられた。われわれは、まず最初にこの仙縁石をめざした。最初はぐるぐると山中を走りまわるばかりで時間が過ぎたが、ほとんど人影のない黒森山の山中で畑の手入れをしている老夫婦が目にとまった。瞬間、何かを感じとった梨岡霊媒が車を下りて声をかけると、老人(佐藤一男さん)は「仙縁石は地元でもほとんど知る者はないが、俺は知ってるよ」といい、みずから軽トラを運転してその場所まで案内してくれた。
さっそく仙縁石の前に供香(くこう)し、梨岡さんが祈り言(のりごと)を唱えた。宥明を指導した神霊の降臨を祈ったところ、すぐさまその神霊が出現したのである。「天狗さんだ」と梨岡霊媒が感嘆した。
彼女は神仏や自然霊、死者の霊などを細部にわたるまでリアルに霊視する。
これまでも何度も天狗霊と出会っているが、かつて出会った天狗とは異なる未知の天狗らしい。頭に兜巾(ときん)をかぶり、白衣に結袈裟(ゆいげさ)をかけた白髪・白髯・有翼の天狗で、羽団扇を持ち、裸足で岩上に立ち、横に一本歯の高下駄が置かれている──梨岡霊媒は見ている情景を矢継ぎ早に私に伝えた。
その後、天狗との会話が交わされた。霊媒を通じて「宥明は自分が導いた。弘法大師ではない」といいきり、「おまえたちは姿を見せないと信じないだろうから、こうして姿を見せたのだ。宥明は頭は足りないが、実に正直で純真な男だった。その心根に感じて教えたのだ」といい、宥明の空中飛行はあなたが支えていたのかと尋ねると、笑って肯(うべな)った。
それが本物の天狗かどうかなお疑問があったので、天狗の出自に関することなど、質問を重ねたが、正真の天狗だと確信がもてた。その中身は許しがないまま書くことはできないが、天狗は「この場所に興味本位の者が集まって踏み荒らされることを望まない。正確な場所は知らせないでよい。縁のある者だけが来ればよい」といって、われわれの供養を受けてくれた。
仙縁石には2日通った。2日目は酒、米、魚の干物、餅などの供物を用意して現地で祭祀を行ったが、行く前から梨岡霊媒に教示が届いた。「今日は線香は要らない」と指示があり、供物を乗せるための紙皿を買おうとしたところ、それも「いらない」と指示が来た。
そのまま地上に置けということなのかと思いながら仙縁石に至る横道に入っていくと、突然「そこの葉を供物の敷物にせよ」と、霊媒に通信が来た。まさにぴったりの大きさの笹葉のところで、指示が届いたのである。
天狗の羽団扇についても教示があった。空行の際、方向を定める役割があるとのことだったが、それについては仙童寅吉が平田篤胤に、「羽団扇は空をさして目的を定めて飛び上り、空より下る時もこの羽団扇をさし、その所を見定めて下りる故に、羽団扇は座右を放たず、わけて空行の用に備うるなり。譬えば羽団扇は楫(かじ)のごとき物なり」と説明している(『仙境異聞』)。
師の天狗の教えもそれと同じだったが、ほかの用途もあることが、梨岡霊媒を通して教示された。羽団扇には「文字が浮き出るなど、そこにすべてのことを鏡のように映し出す」働きがあり、ほかにも「物を隠したり出したりするときにも用いる」というのだ。
会話から、師の天狗は人霊が天狗に化したものと見当がついた。鳥獣や樹木も天狗化するが、山形の師の天狗はそれではなく、密教ないし両部神道系にかかわってきた人霊の化身らしく、貴重なヒントも師の天狗から与えられているが、それについてはまだ書くことはできない。
ともあれ宥明は、この天狗から梵字や真言を教わり、霊術を駆使するようになった。宥明が使った真言は「オン・アボキャ・ベイロシャノウ……」の光明真言一本槍であり、経文は大橋博吉に教えてもらった『般若心経』のみだったというが、それで事は足りたのである。
『高橋宥明上人神変記』には、一般人なら頭から否定するに違いない超常現象がこれでもかというほど出てくる。たとえば宥明は、馬を止めたり人を金縛りにしたり鳥を枝から飛び立てないようにするなどの不思議を現じたが、これは修験が得意とした霊縛法で、天狗の霊術として名高い。
心根の悪い者がくると、顔を合わすことを嫌って瞬時に姿を隠すこともできた。大橋の下宿でもこれを行っている。また、子供と遊ぶことが大好きだった宥明は、大橋の姉夫婦の家で4人の子供とかくれんぼをして遊んだ。宥明はとくに隠れるでもなく縁側で姉夫婦と並んで座っているのだが、子供たちの目には宥明の姿が見えず、捜し回った。
「和尚は初めから隠れていません。……我々にはよく見えるが、和尚が子供だけに見せまいと思念する事によって子供らには見付からない」のだと大橋は述懐している。
宥明の神変記でとくに注意を引くのが「火」だ。福島のある材木店主から書を求められ、大橋とともに出かけたが、早々に退散し、帰途「あの家では何をしても駄目だ。家の者一同、性(しょう)を直さなければ」と大橋に漏らした。その夜半、材木店が火元となって近隣4、5軒が焼けたというのだ。
天狗(ただし邪天狗ではなく正天狗)が心根のよくない者に懲罰を与えることは昔からよく知られており、国安仙人も天狗界の役割は「浄心、恭敬なる者には慈愛を垂れ、高慢なるものには強罰を与え」ることだと教えているが(『道百年』)、この「強罰」の典型に「火」がある。宮地水位は大祓祝詞に出てくる「高津鳥の災い」とは天狗の災いだとし、「天狗その形鳥の如し。空中に翼を振るうは直下の家に必ず火災在り」(『百異記』)、「過ちてこれを犯せば家を焼く」(『捜神記』)などと記している(「天狗叢談」)。
まったく同様の体験を、仙道寅吉も篤胤に伝えている。寅吉が師と空行していた際、師がキセルの火皿の火を下界に落としたところ火事になったといい、「その焼家所はみな心善からぬ人の家または汚れたる家所など、何ぞ(師の)心に応わざる所を焼く」のだと語っているのである。
修験も火渡りなど火の行を行うが、あれは天狗界(寅吉は「山人界」と呼ぶのが正しいとしている)が火の行(「火つるぎ」)を行っているからで沸騰した湯に入る行もあるといい、寅吉も修したという。宥明も熱湯風呂に平然と入って後援者だった佐藤権兵衛(旧千歳村村長)を驚かせている。宥
明が風呂から上がったあと、佐藤が入ろうとしたところ、「殆ど沸騰に近い」湯だったため、水を10杯も注ぎ入れてようやく入湯できたというのだ。
天狗と火の行ということでは、宥明に対決を求めてきた蟇(がま)仙人こと片田源七のエピソードも興味深い。片田は宮城県刈田郡小原村の炭焼きだったが、明治35年61歳のときに刈田郡材木岩の山奥で仙人と出会い、修験系の法術を身につけた。源七の力に目をつけた興業主が明治42年ころから京阪神や東京で「仙術」の興業を行い、大評判をとった。
彼の術とは、沸騰する熱湯に手足を入れたり顔を洗う、焼いた鉄棒を握って扱(しご)く、借り受けた日本刀を手づかみして振り回し、刃でつくった梯子を上り下りする、動物を霊縛するなどで、いずれも典型的な天狗由来の術だ。
この術ですっかり自信を深めた源七が、佐藤村長を介して宥明との対決を求めたが、「対談席上、源七しきりと上人に挑まんとすれど、上人決して争わず、無言のまま不動の金縛りにかけたるに、流石の源七も急に身動かずなりて渋面作りて『こりゃかなわん、かなわん』と閉口したるを(佐藤村長が)見たりと云う」と、木原裸院が書いている。
宥明の霊術でもとりわけ人々を感嘆させたのが「投筆(なげふで)」だ。書の依頼を受けると、宥明は依頼者に画仙紙などを用意させ、それを軽く巻いて封帯すると、仏壇や神棚など人が前を横切らない場所に置かせた。それから筆先にほんの少し墨を含ませ、3〜4尺前方に投げると、離れた場所にある紙に墨痕鮮やかな書や梵字が現れた。墨ではなく水を含ませただけの筆でも、同様だった。大橋が授かったケースでは、紙を大橋の家に置き、一緒にでかけた書店で投筆をして帰宅すると、みごとな「龍」の字が現れていたという。
ただしこの投筆は、心がけのよくない依頼者の場合は文字が現れなかったり、現れたとしても後日消えてしまったり、文字の上に線が引かれて台なしになった。宥明の書は、いまも複数現存している。
空を飛んだことも、数々の証言があり、水上を歩いたことも複数の証言がある。あるとき、宥明が大橋に、かつて阿武隈川を歩いて渡り、それを見ていた渡し船の客が驚嘆したという話をした。そこで大橋が、それなら庭の池を歩けるかと聞くと、「わけはない」といって、下駄を履いて池を歩いて渡り、池の先の便所に行った。大橋がその目で見ているのである(天狗を眷属としていた国安仙人は、衆人環視の中、海上を歩いて新聞に書かれているし、本連載で紹介した禅尼の油井真砂も水上を歩いている)。
別の証言者もいる。前出の加藤茂さんが地元赤山を取材して聞き出した話だ。赤山の子供たちが居残り沢の吉野川で水遊びをしていると、向こう岸を宥明が通りかかった。子供たちを見て、自分も一緒に遊ぼうと思ったらしく、「俺もそこまで行くから」といって笹舟をつくり、その笹舟に乗って川を横断したというのだ。話者はそのときその場にいた女児の子の加藤啓さんの奥さんで、姑は「話をしてもだれも信じないけれど、みんな見ていたから、本当だ、川の上を滑るように近づいてきた」と語っていたという。
宥明の力は、師の天狗と連動していた。彼が異常な力を発揮するときには、前段として、必ずアポーツによって種々の袋状の紐が出現し、その紐が宥明の左の二の腕に巻き付いた。
紐は幅6分(約18㎝)、長さ3尺(約91㎝)ほどで、紐の端に直径3〜4分ほどの「玉」があった。宥明はこれを「お宝」と呼び、さまざまな術は「お宝が来たときに出来る」と語っていた。そのときの宥明は「人が変わったよう」になり、二重瞳孔(重瞳“ちょうどう”と呼ばれ観相では英雄貴人の相とされる)が微動しはじめ、体も揺れてきたと大橋は証言している。
これは天狗から送られた玉に違いない。天狗が玉を祀ることは、寅吉が証言している。彼らは幣に玉を掛けて自らの魂を祀るが、この玉が天狗の「魂の印」で、瑠璃色をしており、数珠のように貫き通されている。親玉が2箇、それ以外の玉が120箇だというが、こうした玉の一種が宥明に授けられ、数々の不思議が現じられたのである。
仙縁を得てからの25年は無欲恬淡、飄々とした風来人生を貫き、頼まれれば治病や投筆を行って生きた宥明は、晩年の大正2年、佐藤村長が宥明のために建てた長寿庵に止住した。佐藤はかつて山形歩兵32連隊時代には大橋博吉の部下だった人物であり、大橋と宥明を引き合わせたのも佐藤だ。大橋の『高橋宥明上人神変記』は佐藤がいなければ書かれることはなく、宥明がかろうじて後世に伝えられたのは、佐藤のおかげといってよい。
長寿庵でも、宥明は寺を子供たちに開放し、畳を破こうが障子を壊そうが、どのように暴れ回っても、いつもニコニコと笑ってその様子を見守っていたというが、やがて体調を壊して(中風と伝えられる)赤山の生家にもどり、大正3年旧暦3月24日(新暦4月19日)に帰幽した。
地元でも世間でも、宥明は上人、和尚と呼ばれてきたが、いわば私度の行者であって、実際には僧籍はない。墓は当初は萩村に設けられたが、昭和61年、上山市の寿仙寺(曹洞宗)に改葬された。墓誌の銘は釈種光園居士。在俗の居士号こそが、仙縁道者・宥明高橋道四郎にはふさわしい。
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