日本ピラミッド研究の原点「葦嶽山」とソラヒコ信仰の謎

文=松雪治彦

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    酒井勝軍が提唱する「日本ピラミッド」の始まりが、広島県庄原市の葦嶽山である。古代信仰の痕跡を現地調査した。

    日本にもピラミッドがある

     広島県庄原市東部の山中に、美しい三角錐状の山体を鎮める葦嶽山。筆者が訪れたとき、前日まで一週間降り続けた大雨によって、その聖なる山は立ち入りを禁じられていた。地元の方いわく、たまりにたまった雨水が山肌から山道にあふれかえり、登るには危険すぎるからだという。

    葦嶽山。

     1934年、酒井勝軍によって、葦嶽山は古代の太陽信仰の聖地として発表された。三角錐の本殿に太陽石をいただき、隣の峰に拝殿を擁した太陽神殿として2万3000年前に作られたここは、日本のピラミッドである、と。この酒井の発表をもとに、日本各地で太陽信仰や巨石遺構を備えた「ピラミッド」が発見されていく。
     酒井は葦嶽山山頂で太陽石と、それを取り囲む環状列石を発見したと記録するが、それらは邪教の類いとして政府から破壊されてしまったという。

     さかのぼれば大正末期、神武天皇の財宝が埋まっているという伝説から葦嶽山の山腹では発掘(盗掘)が繰り返されている。出土品は明らかにされていないが、1984年にはメディアも参加しての発掘調査隊が組織され、財宝の在り処のほか、山体における人工構造物の痕跡や巨石群の歴史などについて科学調査も行われた。

     以上のような話を、雨で閉ざされた葦嶽山を前に思い返す。
     周辺の住人からは「夏至の日に山頂でビカビカと空が光った」という目撃情報のほか、「九州や近畿の山岳信仰集団が、山中で何やら儀式を行っていく」という話も得られた。いずれにしても、葦嶽山を取り巻く霊的なエネルギーは現在も衰えていないようだ。

    葦嶽山の拝殿・鬼叫山の巨石群

     翌日、改めて登頂を目指した。80年代の日本ピラミッドブームの際、葦嶽山の南側にはゆるやかなハイキングコース(灰原ルート)が設けられたが、筆者が選んだのは、かつて酒井勝軍が登った古来の山道、野谷ルートである。地元でこのルートを登るのはキノコ採取を目的とする一部の人だけだという。

     ぬかるんでいる渓谷の山道を進むと、豪雨による倒木や湧き出る雨水が行く手を阻む。その途中で石積みをいくつか見かけた。後で知ったのだが、南側の灰原ルートで見かけた朽ちかけの鳥居は、葦嶽山を聖地として崇める山岳信仰集団が建てたものだという。

     山頂手前で山道は二手に分かれる。まずは拝殿であり、巨石群が待ち受ける鬼叫山(ききょうさん)を登り、本殿の葦嶽山を望むことにした。
     鬼叫山の巨石群はドルメン(供物台)をはじめ、日の光を受けて輝いていたという鏡石、その陽光を集める水晶が天辺に置かれたという大石柱、夏至の太陽の方向を指す方位石などなど。人為的かつ神秘的に配置されたことが明らかだ。
     ドルメンを背にすると、生い茂った樹木の向こうに葦嶽山の山体が見える。古代日本人は、このように「太陽の聖地」を排していたのだろう。

     特徴的な三角錐の山体を持つ葦嶽山だが、意外にも直接目にできる場所は限られている。特に夏場は深い緑が訪問者の視界を遮り、肝心の山頂部を隠してしまう。
     しかしいざ葦嶽山を登ってしまえば、4メートル四方程度の山頂部から、周囲をぐるりと見渡すことができる。周囲からは隠れつつも一帯を見守るような場なのだ。標高815メートルとは思えないほど空が近く感じられた。

    ドルメン(供物台)には水と銭が捧げられていた。
    ドルメンから見上げた山頂。
    山頂部。酒井はここに太陽石と環状列石を発見したという。

    鏡岩。
    大石柱。てっぺんには水晶が置かれたというくぼみがある。現在は1本のみだがかつては屏風のように何本も並んでいたという。

    蘇羅比古神社と葦嶽山の関連

     なるほど葦嶽山は古代太陽信仰文明の聖地、天空の聖域であるーーと、従来、語られてきた伝説を再確認することになった。
     では、その聖地を戴く古代文明の拠点はどこにあったのか、という疑問も浮かぶ。巨石を加工し、山頂付近まで積み上げ、方位や儀式に基づいた配置を行った集団はどこにいたのか?

     少し視点を変えてみると、この地に栄えた文明の痕跡を近隣に見つけることができる。
     実は葦嶽山の登山口のほど近くにある鍬寄山から古墳時代の住居や土器などが出土しており、鍬寄遺跡として発掘調査が行われているのだ。

    葦嶽山周辺。GoogleMapより。

     そして鍬寄山は、この地域の郷社である蘇羅比古神社のご神体である権現山の南麓に位置する。現在の蘇羅比古神社は元禄時代の火災で建て替えられた拝殿を平成に入ってから修繕したものだが、創祀は継体天皇の時代、507年にさかのぼる。『延喜式』にも記載がある古社であり、主祭神は天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)と神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと)だ。

    蘇羅比古神社。

     宮司によれば、蘇羅比古神社はさらに古く、そもそも古くからの土地神「ソラヒコ」を祀ってきたのだという。
    「権現山の山頂には、磐座と思われる遺構と社があったんです。今は登ってまで参拝する氏子もいなくなり、社の管理も困難になって数年前に撤去せざるをえなくなりました。権現山にあった社についての資料も残念ながら先代が出征中に散逸してしまったのです」

     その権現山からも葦嶽山の山体は確認できるという。
     葦嶽山の巨石群のひとつ、方位石は東西南北から30度ずれた方角を示している。これは夏至の太陽の向きを表すと言われているが、実は、その線上には蘇羅比古神社も位置する。
     太陽神殿である葦嶽山から、土地の神「ソラヒコ」を祀る地が示されている。となれば、両者には何かしら関連があると考えられないだろうか。

     蘇羅比古神社の境内には、3対の狛犬が建立されている。そして、拝殿前の2対の狛犬は大きく上、空を見上げている。さらに風神や龍神を祀る末社から、記録に残されていない「ソラヒコ」の姿を窺ってしまう。

    空を見上げる狛犬。石像ではなく、出雲地方の瓦と同じ石州亀山焼きで造られている。葦嶽山は広島県ではあるが奥出雲にも近い。

     取材の終わりに、宮司は、蘇羅比古で語り継がれる伝説を教えてくれた。
    「この地で願いが叶うときは、必ずや雨が降る」と。
     西日本を襲った記録的な豪雨が明けた日から始まった取材だったが、滞在が延びたことで、登頂を急ぐことなく、周辺の「ソラヒコ」に至る時間を得たことは確かだ。

     これは天空の神によるめぐり合わせだろうか……そう思いながら、古代を変わらない、晴れ渡る空を見上げた。

    葦嶽山の方位石。割れ目が示すのは夏至線ともいわれる。

    (月刊ムー 2013年11月号記事を再編集)

    松雪治彦

    ムー歴は浅めのライター。

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