「神智学」を確立した神秘学の巨人! H・P・ブラヴァツキーの基礎知識

文=羽仁 礼

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    毎回、「ムー」的な視点から、世界中にあふれる不可思議な事象や謎めいた事件を振り返っていくムーペディア。 今回は、独自の神秘哲学である「神智学」を創唱し、「近代オカルティズムの母」と称される神秘思想家を取りあげる。

    秘教やオカルトに親しみ…結婚後に姿を消した少女

     本誌の読者であれば、ヘレナ・ペトローヴナ・ ブラヴァツキー(1831~1891)の名を何度か耳にしたことがあるだろう。ロシアの名門貴族の家系に生まれながら若くして世界を放浪し、ヘンリー・スティール・オルコットらとともに神智学協会を設立したヘレナは、19世紀最大の神秘思想家ともいわれる。

     彼女が確立した独自の神秘哲学は「神智学」と呼ばれる体系に整理され、21世紀の現在に至るもなお、途方もない影響力を維持している。

    20世紀神秘学の礎を築き、「近代オカルティズムの母」とも呼ばれるヘレナ・ペトローヴナ・ブラヴァツキー。

     ヘレナは当時のエカテリノスラフ県、現在ウクライナ領のドニプロペトロウシク州で、騎兵砲撃隊長のペーター・フォン・ハーンを父として生まれた。母ヘレナ・アンドレヤヴナ・フォン・ハーンの父アンドレイ・ファデーエフはサラトフの県知事をしており、母方はかつてのキエフ大公ミハエル2世の子孫という、ロシアでも指折りの名門であった。

     両親とも、かつてバルト海沿岸にオランダから移住し、国境の変更に伴ってそのままロシア帝国に留まった、いわゆるバルト・ドイツ人の家系である。
     ちなみに、母の妹エカテリーナは、日露戦争においてロシア側全権代表となり、小村寿太郎と和平交渉を行ったセルゲイ・ウィッテの母親である。つまりヘレナは、ウィッテの従姉ということになる。

    ヘレナが生まれた19世紀前半のエカテリノスラフの様子。
    名門貴族の家系に生まれたヘレナの母、ヘレナ・アンドレヤヴナ・フォン・ハーン。

     ヘレナが幼いころ、家族は父親の軍務に伴って各地を点々とした。しかし、ヘレナが11歳のとき、母親が結核で死亡したため、以後母方の実家に引き取られた。

     少女時代のヘレナは、当時のロシア貴族の例に漏れずフランス語で教育を受け、乗馬やピアノも学んだ。一方、幼いころから精霊と話すことができたり、物を動かしたりすることできたとも述べている。
     また祖母の家には祖先が残した多くの書物があり、秘教やオカルト関係の書籍も読みふけったという。そしてあるとき不思議な体験をした。夢とも幻ともつかないヴィジョンの中に見知らぬインド人が現れ、いずれ彼女と会うだろうと告げたのだ。

     1848年7月7日、17歳のとき、ヘレナはアルメニアのエリヴァン地方副知事であるニキフォル・ブラヴァツキー将軍と結婚した。夫は20歳以上年上だったが、彼女の母親も16歳のときに31歳の父親と結婚しているから、こうした年の差婚も、当時のヨーロッパ貴族の間では珍しくなかったようだ。
     しかし数か月後、ヘレナは突然婚家から出奔する。その原因については諸説あるが、はっきりしたことは不明である。ただし、当時の法律により離婚が困難であったため、彼女は生涯ブラヴァツキー姓を名乗った。

     そしてこの出奔後、1873年にアメリカに現れるまでの彼女の消息について、確実な情報はほとんどない。ともあれこの空白の25年の間に、稀代の神秘主義者ヘレナ・ブラヴァツキーが誕生したことは確かだ。

    師の導きで世界を巡り、神智学協会を立ち上げ

     常識的に考えれば、実家からの仕送りや手にした技能を総動員して何とか食いつないだと考えるのが自然だろう。霊媒ダニエル・ダングラス・ヒュームの助手であったとか、催眠実験の被験者だったという証言もある。しかしヘレナ自身の供述に従うと、霊的・秘教的知識を求めての、めくるめく一大冒険活劇が展開したことになっている。

     出奔後、彼女は船でクリミア半島のケルチへ渡り、まずはイスタンブールに入った。そこからエジプトやギリシア、東欧諸国を訪れ、カイロではコプト教の魔術師パウルス・メタモンにも会った。

     その後パリを経てイギリスを訪れたとき、子どものころヴィジョンで見た謎のインド人に出会う。彼こそが「モリヤ」と呼ばれるマハトマであった。

     神智学におけるマハトマは「マスター」とも呼ばれ、古代からの叡智に通じ、地球のどこかに住んで密かに人類を導いている存在だ。ヘレナはモリヤから、特別な使命のためチベットに行かねばならない、と告げられた。

    ヘレナの人生に大きな影響を与えたマハトマのひとり「モリヤ」。

     この言葉に従って、彼女はまずアメリカへ渡り、そこから太平洋を越えてインドに渡った。インドでは2年間過ごし、そこからチベットに入ろうとしたが、当時のチベットは外国人の入国を固く拒んでおり、イギリス植民地政府にも妨げられたため、いったんは断念する。

     しかし、その後再びアメリカへ渡り、船で日本を経由してインドに入り、1856年、念願のチベット入りを果たす。チベットでは7年過ごしたとも、いったんロシアに戻って1868年に再度入国したともいわれている。

     ともあれチベットではもうひとりのマハトマであるクート・フーミの家で、古代アトランティスの言語センザール語で書かれた『ジャーンの書』を翻訳し、テレパシーや透視など霊能力の開発も行った。

    1868年ごろのヘレナ。霊的・秘教的な知識を求めて世界を放浪していた。

     1870年末にチベットを出ると、一時カイロで心霊協会なるものを設立した後、モリヤの指示に従って1873年7月8日にニューヨークに着いた。

     ヘレナがオルコットと出会ったのは、翌年の1874年10月24日のことだった。オルコットは南北戦争で北軍に従軍し、大佐にまで昇進した軍人であるが、戦後は弁護士を開業していた。他方、心霊現象にも関心をもっており、何人もの霊媒の能力について調査していた。
     そのオルコットが、ヴァーモント州チッテンデンで交霊会を開催していたエディ兄弟の農場に滞在していたとき、そこに彼女が訪れたのだ。

     このときから、オカルティストとしてのヘレナの活動が始まる。彼女はオルコットに自らの霊媒能力を披露し、オルコットはこれを真正なものと信じ込んだ。こうして1875年11月17日、ジョージ・フェルトやウィリアム・クィン・ジャッジらを加え、オルコットを会長として神智学協会が設立された。

    ヘレナとその盟友で神智学協会の初代会長となるヘンリー・スティール・オルコット。
    ヘレナが描いた終末世界のイメージ。彼女は霊的な能力をもち、さまざまなヴィジョンを見ていたという。

    知識人たちも巻き込んだ霊的ムーブメント

     1877年、ヘレナは独自の神秘思想を詳述した最初の著書『ベールを脱いだイシス』を著す。その一方で彼女はインド思想にも多大な関心をもっており、1879年1月3日、ヒンズー教改革運動アーリヤ・サマージの指導者スワミ・ディナンダ・サラスワティの招きに応じてインドに赴いた。

    ヘレナの最初の著書『ベールを脱いだイシス』(1877年)。
    初の著書を発表した当時のヘレナ。

     支配者であるイギリス人からキリスト教思想を押しつけられていると不満に感じていたインドの知識人たちは、キリスト教を否定し、東洋思想をふんだんに取り入れた神智学を歓迎した。

     1880年にはヘレナとオルコットは仏教徒に改宗し、神智学協会もアーリヤ・サマージと合体、1882年には本部をアディヤールに置いた。協会は順調に発展し、協会本部では、関係者に宛てたマハトマからの書簡が天井から落ちてきたり、密閉された戸棚の中に突然現れたりする現象が頻発した。

     世界各地に支部が結成され、ダーウィンと同時期に進化論を唱えたアルフレッド・ラッセル・ウォレスや、アメリカの発明王トーマス・ アルヴァ・エジソンなどの著名人も加入した。

    神智学協会のロゴマーク。

     1884年には、ヘレナとオルコットがロンドンを訪問、イギリス心霊研究協会の代表者とも会談して連携を模索した。

    博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス(上)と発明家トーマス・アルヴァ・エジソン(下)。多くの知識人が神智学協会の思想に賛同していた。

     しかし、ヘレナの不在中、インドで事件が起きた。神智学協会で雑務を担っていたエマ・クーロンが、解雇されたことを恨んで、自分がヘレナの共犯者になって、マスターの出現やマハトマ書簡のトリックに加担していたと証言し、やり方を指示したヘレナの書簡をキリスト教系団体の機関誌に暴露したのだ(クーロン事件)。

     それと前後して、イギリスの心霊研究家リチャード・ホジソンも調査のためインドに赴き、マハトマ書簡の筆跡がヘレナのものと同じであるとした。

    ヘレナを通じて、彼女の指導者であるマハトマから送られたとされる「マハトマ書簡」。その筆跡をめぐって、ヘレナに疑惑の目が向けられた。

     ヘレナはその直後、インドを離れてヨーロッパに戻った。このような状況でもヘレナには一定数の支持者がおり、1887年にロンドンに落ち着くと、独自にブラヴァツキー・ロッジを設立し、運営にあたった。

     有名な占星術師アラン・レオやセファリアル、魔術結社「ゴールデン・ドーン」共同設立者のウィリアム・ウィン・ウェストコットも、このブラヴァツキー・ロッジに入会した。

     ロンドンではロッジの機関誌「ルシファー」を刊行、1888年には主著『シークレット・ドクトリン』、1889年には『神智学の鍵』を出版するといった活動を行い、1891年にヘレナはそこで死去した。

    偽者か? 真の覚者か? 議論を超えたレガシー

     ヘレナ・ブラヴァツキーについては、トリックを用いたペテン師だと決めつける意見もある。しかし、21世紀の現代にまで残る、その途方もない影響力を前にすると、彼女が本物かどうかという議論は些末なことのようにさえ思えてくる。

     世の中の事象は、必ずしも真実に基づいて流れていくものではない。むしろ、大勢の人間が本物と信じるフィクションによって動かされるものだ。その意味で、彼女がそうしたアイテムを数え切れないくらい多く残したことは否定できない。

    晩年のヘレナ。彼女が残した影響力は大きく、紛れもないレガシーといっていいだろう。

     神智学協会そのものは、彼女の死後、分裂や内紛を繰り返し、勢力は衰退している。しかし、ヘレナが著書で主張したさまざまな事項、たとえば春分点の移動に伴うニューエイジの到来、古代の叡智を記した秘密の書物、霊的な進化論とそれに関連する根本人種の存在などは、その後も神智学協会関連団体によって多様に発展し、厚みを加え、今でも人口に膾炙(かいしゃ)している。

     そのような団体には、実際にマスターと接触したと主張する人物も大勢いる。さらに、太古の昔に金星から訪れたサナート・クマラや古代大陸に花開いた異質の文明についての記述などから、欧米ではヘレナは古代宇宙飛行施設の元祖ともみなされている。

     日本でもサナート・クマラは今や鞍馬山の魔王尊として祀られているし、日本のアカデミズムの世界でも、大学で教鞭を執っている人物の中に、密かにヘレナに心酔している者が何人もいるようだ。

    ●参考資料=『神秘主義への扉』(ピーター・ワシントン著/中央公論社)

    羽仁 礼

    ノンフィクション作家。中東、魔術、占星術などを中心に幅広く執筆。
    ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)創設会員、一般社団法人 超常現象情報研究センター主任研究員。

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