プーケットの津波現場に現れる霊は”生きている”/髙田胤臣・タイ現地レポート

文・写真=髙田胤臣

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    2004年のスマトラ島沖地震によって、タイのプーケットは津波の被害に見舞われた。今ではリゾート地として復興を果たした現地だが、津波にまつわる心霊=”ピー”の噂が立ち上っているーー。タイ在住の筆者が、大災害の霊的な痕跡を探った。

    タイ・プーケットを襲った津波の爪痕

     津波。日本語でありながら、今や”TSUNAMI””ツナミ”は世界中で通じる言葉になっている。2011年の東日本大震災でも世界中で”ツナミ”が報道されたが、世界的にこの単語が一般化したのはおそらく2004年12月26日のことだろう。

     この日、インドネシアのスマトラ島北西沖でマグニチュード9.1の地震が発生したのだ。インドネシアだけでなく、インド、マレーシア、スリランカ、それからアフリカに津波が到達し、広範囲に被害が及んだ。特にタイ南部にある、世界的に有名なリゾート地プーケットは、クリスマスと新年休暇でたくさんの欧米人も訪れており、大きな被害を受けた。
     これまで地震がほとんどないタイでは津波という概念がなく、とてつもなく大きな波には「クルーン・ヤック(鬼の波)」という言葉を当てはめていた。このときに欧米のメディアでプーケットを襲ったのがツナミだと連呼され、タイ人も「スナミ」(タイ語ではツの発音がスになってしまう)と呼ぶようになった。

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    津波から6日後、2005年元旦のプーケット(湧上和彦さん提供画像)。

     このころは日本のメディアでさえ、まだ津波そのものを映像や画像で捉えているものがあまりなく、そもそもスマートフォンが普及していなかったので、津波そのものを知らない人がタイには多かった。海辺に暮らす人でさえ、その怖さを具体的にイメージすることができなかっただろう。
     タイ南部の津波が押し寄せた地域にいた人々は、波が目の前に迫り来るまで海を眺めていた様子が映像にも残っている。彼らが危ないと気がついたときには逃げられないスピードだったため、あっという間に波に飲まれた。
     このときの津波の速度は沖合ではジェット飛行機並みの時速700キロにもなっていたとも言われる。タイ南部が面するアンダマン海は水深が比較的浅めなことから多少スピードが落ち、プーケットに津波が到達したのは地震発生からおよそ2時間半後、タイ時間の10時半ごろ(日本時間12時半ごろ)になった。

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    陸地にまで押し上げられた漁船(湧上和彦さん提供画像)。

     津波は陸上のあらゆるものを飲み込み、引いてはまた迫る。車だけでなく家屋なども破壊し押し流す。それらが波の中でぶつかり合い、流された人の中には残骸にもみくちゃにされ、身体をバラバラにされてしまった。
     津波被害のあった全地域で22万人の死者があったと考えられている。タイではプーケット県を中心に、アンダマン海に面する数県で5000人を超える死者が確認されている。
     そんな津波被害のあったプーケットは今やすっかり復興し、ビーチリゾートの姿に戻った。

     一方でいまだ津波の爪痕も残っており、地域によってはピー(幽霊)の目撃談が相次いでいる。

    相次ぐピー目撃談をメディアも調査へ

     地震発生からしばらくの間は連日、タイ国内の報道は津波のことばかりであった。
     当時タイはまだ報道写真などの在り方が今とは違っていて、死体の画像などがよほど直視に堪えないレベルでない限り、新聞やテレビニュースで当たり前のように映し出されていた。白い砂浜に打ち上げられた、どす黒く腐敗して膨らんだ複数の水死体。タイ海軍や漁船なども沖で漂流する遺体を回収し、それらの様子が報道される。そういった報道の中に、ちらほらと怪談が混じっていた

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    2週間近く経っても瓦礫が片づけられていない地域もあった(湧上和彦さん提供画像)。

     タイは国民の94%が仏教徒といわれ、来世のためにせっせと善行する。功徳や喜捨とも呼ばれ、現代タイでは多くの人が寺院などに布施をするか、慈善団体への寄付、そして、災害地などでボランティア活動を行う。このプーケットの津波の際にも発生当日から毎日、タイ全土からたくさんのボランティアが集結し、津波被害の地域復興を手助けした。

     これだけ人が亡くなり、かつ生きている人も集まると、自ずと怪談が生まれてくる。

     津波で亡くなった人の多くは、波に飲まれる数秒前までまさか自分が死ぬなんて思ってもみなかったことだろう。津波の映像を見ると、到達直前はこれまで見たことがなかったほど波が沖へと引いていた。津波が押し寄せる前兆なのに誰も知らず、不思議に思いながら眺める。次第に水平線が白く盛り上がり、大きな波がやってくることに気がつくが、そのときには走って逃げられるスピードではなく、あっという間に波の中へと人々が消えていった。

     当時の新聞には、ビーチで遊んでいたまま飲まれた人が死んだことに気がついていないのか、楽しそうに遊んでいるような歓声が深夜になると聞こえたと書かれていた。ゴシップ紙などならともかく、大手の日刊新聞がまじめに取り上げているのだから、本当によくあった心霊現象だったのだろう。

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    ラノーン県ののどかな草原も当時、津波の海水に沈んだ。

    ピピ島ですすり泣く砂浜の女性

     レオナルド・ディカプリオが主演してヒットした映画『ザ・ビーチ』にも登場する、プーケット島とタイ本土の間に浮かぶクラビー県のピピ島も自然豊かなリゾートとして有名だ。ここも津波の大きな被害に遭っている。
     この島出身でプーケット県でレジャーボートの船頭を務めるカリムさんは、津波後にやはり亡くなった人の霊をピピ島のビーチで目撃しているという。

    「深夜に砂浜に貝を採りに行ったら泣いている女性がいました。真っ暗な中、遠くからでもその姿がわかるんです。ワタシだけじゃなく、たくさんの人も目撃しているので、津波で亡くなったピーが現れたと噂になりました」

     ピピ島の漁師や船乗りなどにはそれ以前から多くの心霊目撃情報がある。たとえば船から島を見ると、人間の姿をした「なにか」が山の上から駆け下りてくる、などだ。このピーは地元ではバンカウという昔殺されたミャンマー出身の男性のピーだと語られている。
     この山から駆け下りてくる話は、以前ボクが紹介させてもらったタイ東部の幽霊島にも似たような目撃談があった。タイでは山から駆け下りてくる幽霊を見る船関係者が多いようだ。

     その後、その砂浜で慰霊祭が行われたことで、カリムさんによれば「成仏したのではないでしょうか」という。ピピ島では慰霊祭や除霊儀式などが各地で行われ、その後津波によるピー目撃例はかなり減ったという。

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    ピピ島の美しさは地震以前に戻っている(カリムさん提供画像)。

     こういった目撃情報が当時津波被害のあった各地で相次いでいた。特に津波発生の当日から数日のまだまだ死体回収が進んでいないころ、各地で亡くなった人がピーとなって現れて、自分の死体が眠る場所を教えてきた。
     たとえば、屋台を引く中年女性が、英語をまったく話せないにも関わらず青いシャツの白人男性から「こちらに来てくれ」と英語で話しかけられ、なんとなく理解して行ってみたら、瓦礫の下に青いシャツの死体があった。
     慈善団体でボランティア隊員に登録しているKさんは津波が発生したその日にプーケット入りしている。ある夜、一緒に行った仲間が寝ていると、妙なリアルさで男性が夢に現れ、「ここで死んでいるから来てほしい」と告げてきた。翌朝、その場所を探し当ててみると、発見されないまま横たわっていた、夢で見た服を着る男性の死体があった。

    呼ばれたかのように海に向かう運転手

     会社経営の日本人男性は震災当時、従業員数人と共にプーケットに救援活動に向かった。
     ひと口に「プーケット」と言っても県であり、それなりに広い。プーケット県はタイで唯一の島の県ということもあり、タイ77県中76番目の広さだ。鹿児島県鹿児島市よりちょっと小さいくらい。狭いと言えば狭いけれども、それなりの大きさはある。そのため、津波被害も大きかった場所、ほとんどなかった場所と落差があった。
     その日本人は救援活動とはいえ、治安の問題もあることから従業員らと被害が少なかった地域のホテルを押さえた。タイ人のボランティアはほぼ野宿で過ごした人も多くいて、ボランティアを支援するボランティア活動もあったほどである。

     その日本人は初日の夜、現地の関係者と食事し、用意してくれた車でホテルに帰った。土地勘はあまりないし、津波のせいで外は真っ暗闇だ。それでも、運転手が明らかに違う方向に向かっていることがわかった。ホテルがある場所とはまったく違う、海辺のエリアに連れて行かれてしまった
     当然、その日本人は運転手に問いかける。どこに行くつもりか、と。
     すると、運転手自身が「え?」と驚いていたそうだ。
     運転手は自分でもなぜそこに向かっているのかわからなかった。まるで吸い寄せられるかのように、津波の被害地域に向かっていたのだ。

     被害地域は夜、真っ暗闇になった。電気を運ぶ電柱と電線まで流されているので、仕方のないことだ。残念ながらこういった暗闇が増えたことで治安が悪化し、女性の暴行や子どもの誘拐事件も各地で起こったという。
     そのため、夜間、外を出歩くこと自体が危険だった。
     こういった暗闇は光を跳ね返す。だからこそ懐中電灯などがある程度役に立つ。なにもないと光は闇に吸い込まれる。

     ボクの著書『亜細亜熱帯怪談』でも触れたが、ある人は、そんな中で奇妙な幽霊を見ている。それはリアカーの幽霊だ。
     改めて話を当人に聞いてみたところ、取材当時にはリアカーと言ったものの、実際にはバイクに取りつけられているサイドカーだったそうだ。タイでは金属を加工した車輪つき荷台をバイクに取りつけ、人や荷物を運ぶ乗りものがある。
     物に人間の愛着や思い入れが入り込んだ、日本で言うところの「付喪神」になったのか。そんなバイクとサイドカーの亡霊が闇に現れたという。見えない人には見えず、すり抜けるようにサイドカーを通り過ぎてしまう。津波はあらゆるものをピーにしてしまったようだ。

    日本人被害者の霊

     スマトラ島沖地震は欧米人のクリスマス休暇に合わせるかのように発生してしまった。そのため、ヨーロッパを中心に外国人にも大きな被害があった。津波被害の全地域で数千人の外国籍の死者が出ている。中にはいまだ身元の判明していない遺体や、死体そのものが発見されていない者が多数いる。
     外国人被害の中に日本人の死者・行方不明者は40人以上いる。タイは12月1月は年間で気温が低くなる時期だ。とはいえ、プーケットは南部である。この時期は乾季でもあり、日中はからっとした天気で気温は高い。そのため、タイ内外の医師や警察関係者が身元確認を急ピッチで進めるものの腐敗速度に追いつかず、身元が判明しないまま土葬や荼毘に付された死者も少なくなかった。

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    津波から5日後の遺体安置場所。保冷施設などが間に合わず、寺院や学校の空き地に置かれていた(湧上和彦さん提供画像)。

     前述の会社経営の日本人によれば、彼が現地で会った日本人通訳からこんな話を聞いたという。

     ある日本人家族が津波に襲われ、娘だけが行方不明になってしまった。日本の消防や自衛官なども当時タイ入りして救援活動を行う中、その通訳はタイ語のできない日本人家族につきっきりで娘を探した。どこかの病院にケガをして収容されているのか、それとも最悪の事態なのか。まったく手がかりが掴めなかった。
     そして、幸か不幸か、娘はみつかった。最悪の事態の方だった。
     ただ、みつかったタイミングが、腐敗による伝染病などを懸念してタイ側が設定していたタイムリミットのギリギリ。まさに火葬されようとしていたところを発見したという。娘の亡骸は家族が見守る中で火葬され、遺骨は日本に帰った。
     その夜、まだプーケットにいた通訳がホテルで寝ていると、ふとその娘が足下に現れたという。穏やかな様子で、娘は合掌すると消えていった。その通訳の方は最後に挨拶に来てくれたのだと解釈している。

    津波のピーの噂は生き続ける

     プーケットでは毎年12月26日に国内外から津波被害の遺族らが集まり、慰霊祭などが行われている。日本の気象庁とも連係する災害警報センターが創設されたり、市街地には津波時の避難経路の標識などが設置されている。大きな犠牲を払ったが、タイは災害対策を行っている。
     とはいえ、プーケットを始め、津波被害にあった県や地域の人々はいまだあの日の出来事を記憶に抱えていて、時折、津波の話になる。被害地域においては15年以上が過ぎた今もまだ、あの日のショックが終わっていない。

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    ビーチを前にした袋小路。看板などが外れ、それが身体に当たって亡くなる人もいた。

     プーケットで一番の歓楽街であるパトンビーチにはバーが集合する通りがある。そこには簡易的なバーが入居する施設が何軒かあるが、いくつかは1階のみにしか店子が入っておらず、2階以上は真っ暗だったりする。
     営業中のバーのママさんに話を聞くと、「2階はオープン当初は店が入っていたけど、営業中のトイレや閉店後の階段でピーを見た人が相次いで、みんな逃げちゃったのよ」と淡々と話していた。1階のバーが優秀すぎて、客が2階に流れていかないだけなのではないかと思う。しかし、何人かに聞いても、だいたい同じような理由を語っていた。

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    パトンビーチのバー集合体。こういった施設の2階はほとんど空き店舗になっていた。

     この記事を書くため、「亜細亜熱帯怪談」の執筆とは別に、当時取材した方に改めて話を聞いたり、新たに話をしてくれる人物をみつけてインタビューした。ただ、この取材時は新型ウィルス騒動の渦中にあったため、電話あるいはSNSのメッセージ機能を介して行っている。特にプーケット県はタイ国内の中でもかなり厳しい措置を採っていて、県内外に出入りすらできないのでそうせざるを得なかった。

     そんな電話取材の中、ある人物との会話はやや難航した。電波状況がよくないのか、話の重要なポイントになると音声が途切れてしまったのだ。その最中に時折、ボクの耳に鈴の音が聞こえていた。チリンチリンと鳴るのだ。念のため、相手にどこにいるのか、近くに鈴や風鈴がないか聞くが、「ない」という答えだった。
     著書の取材の際にも会いに行けない場合は電話取材ということもあった。そういうとき、こういった電波障害はよく起こる。ときには子どもの叫び声が聞こえることもあったくらいだ。
     ボクは今バンコクにいてこの記事を書いているのだが、こういったタイのピーにまつわる記事を執筆していると、背中に人の気配を感じたり、いわゆるラップ音が聞こえることもある。

     鈴の音が聞こえることを相手に話すと、「また怖いこと言ってビビらせるんだから」とその人は笑っていた。

     タイは仏教徒が大半の国だが、それ以前は精霊信仰が強かった。そのためか、そこかしこにピーの話があるし、日常的にもピーに関係したかのような不可思議な現象が起こる。電話相手も慣れたもので、鈴の音くらいでは怪談にはならず、笑い話で終わってしまうのである。

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    ちょうど津波が到達したのと同じ時間帯のパトンビーチ。

    髙田胤臣

    1998年に初訪タイ後、1ヶ月~1年単位で長期滞在を繰り返し、2002年9月からタイ・バンコク在住。2011年4月からライター業を営む。パートナーはタイ人。

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