人体から発するエネルギーが文字や形を写しだす! 「念写」の基礎知識

文=羽仁礼

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    毎回、「ムー」的な視点から、世界中にあふれる不可思議な事象や謎めいた事件を振り返っていくムーペディア。 今回は、人体の何らかのエネルギーで文字や像をフィルムに写しだす「念写」と、その力を持つ能力者たちを取りあげる。

    心霊ブームの欧米で注目された「心霊写真」

    「念写」とは、人間の精神から発する何らかのエネルギーによって、密閉された写真乾板やネガ・フィルムなどが感光したり、さまざまな像や文字などが写しだされる現象のことである。
     精神が物質に影響を与えるという意味でサイコキネシスの一種に分類され、ニーナ・クラギーナやユリ・ゲラー、清田益章といったサイコキネシスの能力者も念写実験に成功している。

     念写という言葉を最初に用いたのは、当時東京帝国大学助教授であった日本の福来友吉(ふくらいともきち)で、海外の超心理学関係の書籍にも、彼が世界で最初の念写実験を行ったと記されている。実際には、人体から発する何らかのエネルギーが印画紙や乾板に影響を与えるという考えは、福来以前にも存在したようである。
     たとえば19世紀の心霊現象ブームの中、欧米では「心霊写真」と呼ばれるものが登場した。これは、現在の日本で用いられている「心霊写真」という言葉とは少しばかり意味が異なり、死んだ人間の姿が写真に再現される現象のことで、こうした能力を持つ者が「写真霊媒」、あるいは「心霊写真家」と呼ばれた。

     つまり、現在日本で心霊写真といえば、撮影者がまったく気づかないうちに霊的な何かが写り込んでいるものという意味で用いられるが、19世紀においては、霊能者が意図的に死者の霊を写真に写しだしたものを主として意味したのだ。
     記録上最初の写真霊媒は、アメリカのボストンで宝石商をしていたウィリアム・マムラーといわれる。彼は1861年、リンカーン大統領未亡人の背後に、亡くなった大統領本人の姿を写しだしたことで名高い。

    写真霊媒のウィリアム・マムラーが写したリンカーン大統領未亡人の写真。夫人の背後に亡くなった大統領の姿が写しだされている。

     ほかにもアメリカのエドワード・ワイリー、フランスのエドゥアール・ブゲ、イギリスのリチャード・ブールスネルやエイダ・エンマ・ディーンなど、当時は多くの写真霊媒が現れ、イギリスではクルー・サークルという心霊写真家のグループまで結成された。
     彼らの写真については二重露出などの疑いも持たれているが、人体、あるいは霊が発する何らかのエネルギーによってこのような姿が写しだされると考えた人物もいたようだ。

    エドワード・ワイリーが撮影したとされる心霊写真。しかし後年、彼の心霊写真は夜光塗料を使用したトリックだったことをワイリー自身が告白している。

     そのひとりがフランスのイポリート・バラデュークで、暗室で写真感光板の上に手を置いて思念させ、それに人間や物体を想像させるような形のものを感光させることを、多くの人たちに実践して成功したといわれている。

    透視能力実験の最中に発見された「念写」の力

     だが、こうした現象は人間が念じることにより、その精神力によって生じると考えたのが福来友吉である。
     福来は、それ以前にあった心霊写真とは異なり、明治の「千里眼事件」と呼ばれる出来事の中、透視能力を研究する過程で独自に念写を発見した。
     明治の千里眼事件は、日本だけでなく、世界に先駆けた超心理学研究の事案として有名で、当時の日本では一種の社会現象にもなった。その発端は、御船(みふね)千鶴子という透視能力者の出現であった。
     千鶴子の能力は、まず地元熊本で評判になり、明治42(1909)年5月、熊本済々黌(せいせいこう)校長である井芹経平(いせりつねひら)から千鶴子の存在を伝え聞いた福来はその能力に関心を持ち、東京から井芹に実験物を送って透視実験を依頼した。
     このとき福来は、手許にあった名刺から19枚を選び、その表面の一部ないし全面に錫箔を貼った上で白い紙を重ねて封筒に入れ、その封じ目に紙を貼って印鑑を押すなどして封緘したものを井芹に送り、千鶴子に透視させるよう依頼した。
     そのうち7枚の封筒についての透視結果が福来に届いたのは翌年2月下旬のことであった。全19枚のうち、3枚は千鶴子が誤って燃やしてしまい、残った封筒のうち7枚を透視したところで千鶴子が疲労困憊したため、実験が続けられなかったのだ。
    しかし、送られてきた7枚のうち3枚は完全に的中し、他の4枚も一部誤りがあったが、ほぼ的中していた。
     この結果に勇気づけられた福来は、同じく透視に関心を持つ今村新吉京都帝国大学医科大学教授とともに4月に熊本を訪問、自ら千鶴子と透視実験を行った。結果は良好で、4月25日に東京帝国大学構内で開催された第91回心理学会例会では、福来がこの実験について報告した。
     この報告で、元東京帝国大学総長の山川健次郎をはじめとする他の科学者たちも千鶴子に関心を抱き、9月に千鶴子が上京した際は、福来、今村の両名に加え、山川をはじめとする東京帝国大学の学者9名が立ち会った上で透視実験が行われたが、このときは不首尾に終わった。
     10月になると、四国の丸亀に住む、もうひとりの透視能力者の存在が明らかになった。それが長尾郁子であった。
     福来は、この長尾郁子の透視実験を行う過程で念写を発見したのだ。

    御船千鶴子(1886〜1911)。「千里眼夫人」の異名を持つ透視能力者で、日本で初めてその能力が学術的な研究対象となった。
    明治43(1910)年9月14日に行われた千鶴子の透視実験の様子を伝える当時の新聞記事。

    小説のモデルにもなった念写実験の顛末

     福来は9月の東京での実験後も、個人的に千鶴子の透視実験を続けており、あるとき透視の対象として、文書を封筒や箱に入れたり箔を貼ったりするのでなく、未現像の乾板に撮影した文字を透視させることを思いついた。
     そこで福来は11月16日、熊本を訪問した際、千鶴子に「高」の字を撮影した乾板の透視を依頼するが、このときは不首尾に終わった。福来はそのまま郁子の透視実験のために丸亀を訪れ、菊池俊諦丸亀中学校教頭に「高」の乾板を預けて23日に帰京した。

    長尾郁子(1871〜1911)。幼いころから近所の火事を予知したり、失せ物のありかを透視するなどの不思議な力を持っていたという。

     後日送られてきた実験結果は見事に的中していたが、未開封の乾板に光線漏れで画面がぼやけたような、いわゆるカブリが生じていた。福来があらためて「哉天兆」という文字を撮影した乾板を送ったところ、今回も成功し、やはりカブリが生じていた。
     福来はこの現象に遭遇し、意識を集中すれば乾板に文字を刻むことが可能ではないかと考えた。そこで12月にまたも丸亀を訪れると、26日、27日の両日、郁子の実験を行った。
     26日の実験では文字の形にはなっていなかったが感光の跡が認められ、27日の実験では丸や四角、十字の形を写すことに成功した。そこで福来は、この現象を念写と名づけたのだ。

    (上4枚)福来友吉が実施した実験において、郁子が成功させた念写の数々。文字だけでなく、四角や十字、観音像のようなものも念写することができた。

     明治44年1月8日には、山川健次郎や藤教篤東京帝国大学理科大学講師などの科学者が丸亀に集まり、郁子の透視実験が行われた。
     藤講師らは、透視がトリックである可能性も考え、防止のため実験物を入れる箱に鉛の板を挟むなどさまざまな工夫をこらしたが、何と肝心の乾板を入れ忘れるという失態を演じた。透視実験のため箱を受け取った郁子は、内部に乾板が入っていないことを見抜き、山川をなじったという。

     こうして実験は不首尾に終わり、千鶴子や郁子の能力の真否については曖昧なまま終わる。そして、その年の1月18日に御船千鶴子が服毒自殺、長尾郁子も風邪をこじらせて2月26日に肺炎により死亡したことで、世間の関心も急速に薄れ、学界ではむしろ透視はインチキではないかという風潮が強くなった。
     ちなみに御船千鶴子と福来友吉は、それぞれ鈴木光司の小説『リング』の山村志津子と伊熊平八郎のモデルといわれている。

    福来友吉が見いだした念写の能力者たち

     しかし福来はその後も高橋貞子や御船常代などの能力者を対象に念写の実験を続けた。

    日本の超能力研究に多大な功績を残した福来友吉(1869〜1952)。透視実験を行う中で、「念写」の現象を発見した。

     福来が高橋貞子の存在を知ったのは大正元年のことで、翌年3回の念写実験を行って良好な成績を得た。

    念写や透視の能力を持っていた高橋貞子(1868〜?)。トランス状態のときに超能力を発揮していたという。
    貞子が念写した樹枝の形。

     大正2年冬には、岡山県吉備郡の御船常代という女性の存在を知り、実験物を送る形で透視と念写の実験で行ったほか、翌大正3年3月21日には霊能者と自称する武内天真という人物の訪問を受け、彼の念写実験を行っている。
     そして大正6(1917)年に出会ったのが、三田光一であった。三田は宮城県本吉郡気仙沼出身で、幼少時よりお菓子の隠し場所を見抜いたり、放火犯人や泥棒を当てたりする能力を発揮したといわれる。他方、一時イギリス人手品師の一座に加わっていたともいわれている。
     大正6年2月8日、岐阜県の共通の知り合いの家で三田と初めて会った福来は、2枚の乾板を別々の場所に置き、「至誠」の2字を1字ずつ念写するよう依頼したが、このときは失敗に終わった。しかしその2日後、名古屋で行われた念写の公開実験で、3000人の公衆を前に、三田はこれをやり遂げて見せた。

    三田光一(1885〜1943)。福来が「私の知る限りにおいて当代無比の大霊能力者」と讃えたほどの能力者だったという。
    三田が念写した「月の裏側」の像。

     そこで福来は、2枚の乾板を重ね合わせた上で紙に包み、二重の箱に収めるなどした実験物を送り、東京の浅草観音堂の裏に掲げられている山岡鉄舟の書を透視した上でこれを乾板に念写するよう依頼した。実験は2月18日に岐阜県大垣町で行われ、三田は見事にこの実験に成功した。
     このような成果を得て福来は、昭和3(1928)年にはロンドンで開催された国際スピリチュアリスト会議に出席、念写の実験について発表した。これにより念写の実在と福来の名が世界に知られるようになった。

     なお、明治から大正にかけては、福来以外にも念写の実験を行った者がいる。
     例えば福来と一緒に御船千鶴子の透視実験を行った今村新吉は、明治44年1月に、大阪で鹽崎(しおざき)孝作の念写実験を行っており、大正7年には山梨県都留郡西桂村小学校の教職員が、渡邊偉哉の念写実験を行っている。

     海外に目を移すと、1960年代になって、アメリカに卓越した念写能力の持ち主、テッド・セリオスが登場した。
     彼の能力に関心を持った精神科医ジュール・アイゼンバッドは、セリオスを自宅に住まわせて数多くの念写実験を行った。
     セリオスの場合、ポラロイドカメラを彼の顔に近づけてシャッターを切る形で、さまざまなイメージを写しだすことができた。しかし、セリオスの能力は次第に衰え、やがて完全に能力を失ってしまったという。

     以後、三田光一やテッド・セリオスに匹敵するような、卓越した念写能力者は登場していないようだ。

    アメリカの念写能力者テッド・セリオス(1918〜2006)。卓越した念写能力を持つことで知られる。

    ●参考資料=『透視も念写も事実である』(寺沢龍著/草思社)、『ムー・ブックス1超能力』(学研)


    羽仁 礼

    ノンフィクション作家。中東、魔術、占星術などを中心に幅広く執筆。
    ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)創設会員、一般社団法人 超常現象情報研究センター主任研究員。

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