12年にわたった英国バタシーのポルターガイスト事件の新証言/山口直樹

文=山口直樹

    じつに12年もの間、取り憑いた霊によって引き起こされた「バタシー・ポルターガイスト事件」。驚くべき恐怖体験を、当事者自らが当時の心境を語った。知られざる怪事件が今、甦る。

    悪霊が引き起こすポルターガイスト現象

     イギリスで、もっとも奇妙でもっとも長期にわたった心霊事件をご存じだろうか? ロンドン南部、バタシー地区に住む一家が1956年から12年にわたり、悪霊に悩まされたバタシー・ポルターガイスト事件である。
     2021年、イギリスの公共放送BBCがこの実話をもとにしたラジオドラマ(全8話)を放送し、80歳になった当事者の女性シャーリーがマスコミのインタビューに応え、反響を呼んだ恐るべき事件をレポートしよう。

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    ヒッチングス一家。左からジョン、ウォーリー、シャーリー、キティ。

     テムズ川南岸にあるバタシー地区は、今では高級住宅地だが、1950年代当時は貧しいエリアだった。
     怪異に見舞われたのは、同地に建つテラスハウス(境界壁を共有する低層集合住宅)に住んでいたヒッチングス一家。怪現象の中心にいたのは、当時15歳の少女だったシャーリー。美術学校に通い、デパートで仮縫いのアルバイトをしていた。
     父親のウォーリーは40代で、地下鉄の運転手。妻キティは、彼より少し年上で、以前は事務員として働いていたが、数年前に慢性関節炎を患い、今は車椅子生活を送っている。3階には祖母エセルと、彼女の養子で測量士のジョンが住んでおり、シャーリーは20代のジョンを兄のように慕っていた。そんな一家に、1956年1月のある夜、突如として異変が起こったのである。
     その日の朝、シャーリーは枕元に置かれたきれいな装飾が施された銀色の鍵を見つけた。家族に聞いても、だれも鍵のことを知らず、家中の鍵穴を試しても合うものはなかった。
     いつしかなくなってしまったというこの鍵が、何であったのかは今も謎だが、その夜から一家は激しいポルターガイスト現象に襲われたのである。
     深夜、突如、家中の壁や天井、床から叩く音やひっかく音などが響きはじめた。その音は両隣にも響き、大騒ぎとなった。父ウォーリーの通報で午前3時に駆けつけた警官も無気味な音を聞き、周囲を調べたが原因はまったくわからなかった。
     その日から数週間にわたり、ひと晩中怪音は続き、その後、鍋やフライパン、食器などが、宙を飛ぶようになったのだ。物体の飛翔が始まると、一家はうずくまり、収まるのをひたすら待つしかなかったという。

     この奇怪な出来事はたちまち評判となり、新聞をはじめマスコミが次々と取り上げた。悪霊の仕業と考えたヒッチングス一家は、犯人をディズニーアニメの短気で傍若無人なキャラ、ドナルドダックをもじって「ドナルド」と呼ぶようになった。そうしたなか、祖母エセルが思いきった行動に出る。
     熱心なカトリック教徒であったエセルは、ドナルドを悪魔の使いと考え、自ら悪魔祓いの儀式を行ったのだ。
     エセルは悪魔が狙っていると思われたシャーリーに聖水をかけ、聖書を読み、大きな十字架を掲げて「悪魔よ去れ‼」と叫んだ。すると、十字架はエセルの手を振り払って宙を飛び、シャーリーの部屋のカーテンを縦横に切り裂き、悪魔祓いは失敗に終わってしまった。
     その後、ウォーリーが霊媒師のハリー・ハンクス氏に相談。降霊会を繰り返したのちに、悪魔祓いを行ってもらうことになった。しかし、当日に数人の警察官がハンクスの家を訪れ、ハンクスと協力者の司祭、ウォーリーとシャーリーら全員を署に連行したのである。どうやら悪魔を召喚する黒魔術を行っているとの通報があったらしい。
     幸い、その夜の取り調べで容疑は晴れたが、シャーリーの心はひどく傷ついたという。

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    事件を報じた最初の新聞記事。
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    ポルターガイスト現象が始まったことを報じた記事。

    シャーリーに思いを寄せる悪霊ドナルド

     事態を知った地元選出の労働党のマーカス・リプトン下院議員は、この出来事を議会で取り上げ、ロンドン警視庁に正式な謝罪を求め、話題を呼んだ。
     結果、内務大臣とロンドン警視庁は捜査の不備を認めたが、それよりも事件を報じた新聞を読み、著名な超常現象研究家のハロルド・チベットがヒッチングス家を訪れ、力になると約束してくれたことが、同家には大きな希望となった。
     ハロルド・チベット(1900〜1978年)は、超常現象調査の先駆者で、心霊現象研究家のハリー・プライスと親交があり、魔術師アレイスター・クロウリーやSF作家アーサー・C・クラークなど、数多くの著名人を取材している人物だ。
     すぐさま、チベットはヒッチングス家に1週間泊まり込んでポルターガイスト現象を詳細に調査。結果、この霊は簡単には祓えないと判断した。そのうえで、“霊と交信し、しばらくはともに暮らす道を探ろう”と一家に提案した。

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    ハンクス氏が行った降霊会の写真。シャーリーの右にハンクス氏、左に父親が座っている。
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    霊媒師のハンクス氏。

     同意を得たチベットは、まずドナルドに質問し、「はい」と「いいえ」で答えてもらう方法を試した。「はい」ならノック音を1回、「いいえ」なら2回鳴らすように伝えた。すると、霊は提案を受け入れ、簡単な会話なら可能になったのだ。
     わずかながらコミュニケーションが取れるようになったある日、事件の情報を聞きつけた地元の新聞記者がヒッチングス家を訪れ、ドナルドに尋ねた。
     「あなたは悪霊ですか?」
     「いいえ」
     「シャーリーに恋をしているのですか?」
     「はい」
     このやりとりが記事になると、シャーリーは“幽霊の恋人”といわれるようになったという。

     次にチベットが、アルファベットの文字カードを並べ、単語を綴っていく方法でドナルドとのコミュニケーションを図った。最初はカードを飛ばして拒否していたドナルドだったが次第に答えるようになったという。さらにチベットは、ペンで紙に文字を書くように勧めたが、何も反応はなかった。だが3週間後、ドナルドはシャーリーの部屋にあったノートに「シャーリー。私は来た」と、たどたどしい文字で記したのである。
     以後、ドナルドは文字を書くのが楽しくなったのか、壁に落書きをするようになったという。そんなドナルドに、チベットは根気よく話しかけ、「紙に要求を書いてくれたら、できるだけかなえてあげよう」と諭したところ、落書きをやめたそうだ。

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    ドナルドが壁や天井に残したメッセージ。

    悪霊の正体は有名貴族だった!!

     間もなくして、要求を記すようになったドナルド。しかし、今度は要求がかなわないと幼児のように癇癪を起こすようになり、ある日、事件は起きた。

     ドナルドがある新聞記者を呼べと求めた。だが、あいにく連絡がつかず、「来られない」と伝えたところ、怒ってウォーリー夫妻のベッドに火をつけたのである。慌てたウォーリーが火を消そうとすると、何かが腕に爪を立てて止めようとした。消火後に病院に行くと、彼の腕には獣に襲われたような傷があったという。ドナルドは書面で「悔い改める」と表明したが、年末に再び恐ろしい事件が起こる。
     深夜、突如としてシャーリーが悲鳴を上げた。ウォーリーと養子のジョンが彼女の部屋に駆け込むと、仰向けに寝た姿勢で、シャーリーの体がベッドから15センチほど浮き上がっていたのだ。
     ふたりが呆然と立ち尽くしていると、シャーリーの体はそのままスーッとベッドの上に降りたという。シャーリーにケガはなかったが、ひどく脅えたため、ドナルドは再び書面で謝罪。以後、タチの悪いイタズラは収まったそうだ。
     一方、チベットはドナルドの正体を知ろうと、会話を続けた。するとドナルドは、自分はフランス革命で処刑されたマリー・アントワネットの次男、ルイ・シャルル(1785〜1795年)だと話した。

     史実では、長男ルイ・ジョゼフは1789年6月に7歳半で病死。そのため、ルイ・シャルルは、父親のルイ16世が1793年1月に処刑されると、名目上ルイ17世となった。
     しかし、1791年からタンプル塔に幽閉されていたルイ・シャルルは、解放されることなく1795年に10歳の若さで病死したのである。
     しかも、ルイ・シャルルは、幽閉中に酷い虐待を受けたと伝えられている。チベットは、ドナルドが暴力的で子供っぽいことや、シャーリーへの愛情表現が歪んでいること、また、彼が書いた文章に英語とフランス語が交ざったようなおかしな表現があることなどは、彼がルイ・シャルルなら納得できると考えた。以後、ドナルドはシャーリーをフランス語風に「レニー」と呼んだり、フランス貴族の生活を連想させる玩具をねだるようになった。
     たとえば、1957年にドナルドがヒッチングス家に送ったクリスマスカードには、次のように書かれていた。
     「キティ、ウォルター、そして私のレニーへ。ジョワイユ・ノエル(フランス語でメリー・クリスマス)」
     なお、ウエストミンスター宮殿の絵が印刷されたこのクリスマスカードは、ドナルドに頼まれてチベットが購入、メッセージが記された後、チベットが投函したものだという。

     こうしたことから、チベットはドナルドとルイ=シャルルを結びつける確かな証拠を摑もうと、彼と何度も交信し、調査を行った。しかし、最後まで確証は得られなかったそうだ。

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    メモ帳に記された「シャーリー、私は来た」の文字。
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    シャーリーに送られたクリスマスカードの文面。

    突如、一家に別れを告げたドナルド

     さて、出現から2年がたつと、ドナルドはおとなしくなり、自分の部屋をもらってヒッチングス家の一員となっていた。ほしいものはウォルターやシャーリー、またはチベットに用意してもらい、部屋を好きなように飾って日日を過ごすようになったのである。
     とはいえ、ドナルドによるシャーリーの監視は続いた。たとえば、何か気になることがあると母親のキティを問いただし、シャーリーのボーイフレンドが訪ねてくると物を投げて追い返した。
     しかし、不思議なことにドナルドはデレクという男性との交際は認めた。と同時に、ドナルドが、しばしば沈黙するようになったという。その後、シャーリーとデレクは1965年にめでたく結婚し、イングランド南部のウエスト・サセックスに引っ越していった。
     思いを寄せる相手が引っ越す場合、同時に憑いていってもおかしくない。だが、ドナルドはヒッチングス家に留まった。さらに、翌66年にバタシー地区の再開発でテラスハウスが取り壊され、近くに移転しても一家と一緒にいたという。ところが、1968年になると、ウォルターとキティに突如別れのメッセージを残し、そのまま消えてしまったという。

     残念ながら、バタシー・ポルターガイスト事件のショッキングな怪現象は、1956年から57年と60年以上も前に起きたもので、写真はほとんど撮られていない。
     だが、冒頭で述べたように、幸い事件のヒロインだったシャーリーは存命で、80歳になっても事件について語ってくれている。彼女は「ドナルドに青春時代を奪われた」と怒る一方、「ウソをついていると周囲に疑われたことが悲しかった」という。
     また、父ウォーリーは神経を擦り減らし、運転手から簡単な仕事に回されて収入は減り、シャーリーはドナルドが邪魔をして働けなかった。さらに母親は車椅子生活で、経済的にも物理的にも転居はできなかった。それなのに、事件の真偽を疑う者が多かったのだ。ヒッチングス一家は、ドナルドの出現で得したことは何もなかったのである。
     約60年前に起きたバタシー・ポルターガイスト事件は、異常性が高い心霊現象の恐ろしさと調査の難しさ、霊の世界の謎の深さを痛感させられる、史上稀な事件といえよう。

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    超常現象研究家のハロルド・チベット。

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