異形の神・ひょうたん様が巨大ワラジで練り歩く! 大分・豊後大野の「ひょうたん祭り」/奇祭めぐり

文・写真=影市マオ

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    巨大なワラジをはいた異形の神が練り歩く大分の奇祭「ひょうたん祭り」。ひょうたんは神仙世界のメタファーなのか、あるいは密かに伝えられたキリシタン信仰のシンボルだったのか……!?

    人々を異界へ誘う魅惑のひょうたん

    「ひょうたんからコマが出る」――。

     意外な所から意外な物が出てきたり、冗談が本当になった場合などに使われる、昔ながらのことわざだ。筆者はずっと、この「コマ」を玩具の「独楽(こま)」だと誤解していたが、正しくは馬を指す「駒(こま)」のことらしい。
     その由来は諸説あるが、中国の仙人・張果老(ちょうかろう)が、術でロバをひょうたんに出し入れしつつ、各地を旅したという伝説の影響とされる。神仙思想では、「壺(=ひょうたん)の中には素晴らしい別世界(別天地)がある」と考えられたのである。この別世界は「壺中天(こちゅうてん)」と呼ばれ、転じて、「酒を飲んで俗世を忘れる楽しみ」を意味する言葉にもなった。

     ところで、大分県にはこれらの話を彷彿とさせる、まるで冗談みたいな祭りが存在する。
     その名も通称「ひょうたん祭り」。
     県南部に位置する豊後大野市の千歳町で、800年以上続くとされる伝統行事だ。冬を告げる風物詩として、毎年12月の第1日曜日に、地域の氏神である柴山八幡社周辺で行われる。正式名は「霜月祭」だが、祭りの主役「ひょうたん様」にちなみ、前述の別名で呼ばれ始めたという。

     ひょうたん様とは、神幸行列の先導を務める神の化身。ユーモラスな格好(詳しくは後述)でのっしのっしと練り歩き、集落の外れを目指す。そして道中、ひょうたんに入れた神酒を参拝者に振舞い、無病息災や五穀豊穣を祈願するのである。
     すなわち祭り当日は、普段静かな山里がある種の壺中天と化し、人々の前で“酔狂”な光景が繰り広げられるのだ。

     それを間近で刮目すべく、筆者は昨年末、ひょうたんに吸い寄せられるかのように、現地へと向かったのであった。

    ひょうたん様が山里にひょっこり現る

     澄んだ青空が広がり、祭り日和となった12月1日の朝。大分駅から電車とバスを乗り継ぎ、1時間余りかけて千歳町に移動。さらに農道を30分程歩くと、午前11時頃、柴山八幡社が鎮座する柴山地区に到着した。
     この辺りは九州で唯一ジオパークとエコパークの両方に認定されており、起伏に富んだ雄大な自然が広がっている。また、摩崖仏や石橋などの文化財の宝庫でもあり、悠久の時の流れを感じさせる土地である。

     そんな千歳町の交差点には、少し変わった道路標識が立つ。いくつかの近隣地名が連なり、それぞれ方向を指す矢印と距離数が表記されたものだが……
     ここに何故か「ひょうたん祭り(Hyotan Festival)」も混じっているのだ。
     常設の標識にもかかわらず、神社名でなく行事名の方を採るとは珍しい。この祭りが地域を代表するコンテンツとして、地元住民に愛されていることが伺える。

     さて、標識を通り過ぎると、筆者の視界に突如、“異物”が飛び込んできた。
     進行方向の彼方、数百メートル先の道路上で、山里の風景から浮いた“赤い何か”が動いている。気が付けば、UMAを発見したような気持ちになりながら、その物体の方へ駆け寄っていた。

     そこにいたのは、実に不思議な姿の老人だった。

     全身緋色の装束を着て、頭に烏帽子風の長いひょうたんを被り、腰には大きなひょうたんをぶら下げている。また、背には1メートル程の太刀を背負い、右手に杖として大きな榊の枝を持っている。そして何より奇妙なのが、足に履いた巨大なワラジ。もはや、ビッグフットすら凌駕する衝撃のサイズ感である。

     どう見ても、ただのひょうきん者ではない。間違いない(間違いようがない)、彼こそが、ひょうたん様だ……! 柴山八幡社の鳥居前で、緑色の法被を着た世話人らに囲まれて、ゆっくりと歩いている。

     かと思えば、ひょうたん様はすぐに世話人に抱えられ、軽トラックの荷台に乗せられたではないか。やがて神輿と化した軽トラは、鳥居を抜けて参道の奥へ走り去ってしまった。ひょうたん様は足を投げ出し、こちらを見つめたままの状態で、みるみる小さくなっていく。

     走って追いかける人もいて、さながら感動のラストシーンみたいな雰囲気だ。
     さらば、ひょうたん様。また会う日まで――。

     いや、もちろん祭りのメインはこれからである。早めに着いたので偶然目撃したが、どうやら今のは事前のリハーサルとして、ひょうたん様が少しだけ歩いてみせたようだ。

    気になる大ワラジと長ひょうたん

     急いで軽トラの後を追うと、辿り着いたのは一軒の古民家。神社の麓にある宮守の家で、外には神馬が繋がれている。
     ひょうたん様は再び世話人に抱えられ、荷台から降りて縁側から屋内へ。

     この時、大ワラジと長ひょうたん、大ひょうたんは一旦、全て取り外された。

     これは取材としてはチャンスである。ここぞとばかりに、軒下に残された大ワラジをまじまじと見分させていただいた。巨人が訪問したかのようなシュールな光景になっている。

     この大ワラジは、祭りを仕切る世話人「座元」によって、1週間程前に新藁で編まれたもの。長さ1.3メートル、幅0.6メートル、片足の重さ約16キロと過去最大級らしい。
     当然、重過ぎて普通に履き歩くのは困難なため、ひょうたん様の移動時は、彼の前方左右にいる介添え役が一歩ずつ、ワラジの紐を引っ張り上げることで補助を行う。

     どうしてこうなった……と思わざるを得ないが、元々ワラジは通常のサイズであったそうだ。しかし、いつしか座元の当番の組(町内複数班が毎年持ち回りで担当)が、前年の組よりワラジを大きくしようと競い始め、とうとう現在のように巨大化したのだという。将来的に何処まで大きくなるのか、気になるところである。

     家の中を覗くと、身軽になったひょうたん様が奥に座り、彼を囲む形で氏子らが宴を開始。行列の出発まで、飲み食いしながらくつろぐのだ。

     今回ひょうたん様を務めるのは、70代の地元男性。
     この先導役には毎年、当番の組で一番元気が良く、酒に強い長老が選ばれる決まりとなっている。それもそのはず、重いワラジで約1キロの道のりを2時間程かけて歩くため、十分な体力が必要なのである。
     また、神酒で身を清め、酔っ払うことで神懸りとなるので、行列の当日はもとより、前々日の儀式から飲酒し続けるそうだ。実に大変な役目だが、選ばれた者には幸運がもたらされるという。

     そんな彼の背後には祭壇があり、いつの間にか先程の長ひょうたんが安置されていた。長さ約80センチのひょうたんで、よく見ると、その表面には男性の顔が描かれている。ハの字眉、垂れ目、高い鼻、八の字髭、結んだ口元……素朴で穏やかな表情だ。

     そして、側面からは長い赤髪が垂れ、先端には紙垂が巻かれている。
     すなわち、こちらがひょうたん様の“本体”に当たるらしい。老人との一体化によって、移動が出来る完全な依り代になるということだろうか。

    神社の成り立ちに関わる祭りの由来

     行列の出発まで時間があったので、丘の上の柴山八幡社を参拝することにした。

    「運転者はお神酒を絶対に飲まないで下さい」と書かれた大きな看板を横目に、鳥居の先の石段を上り切ると、鬱蒼とした木立の中に趣深い社殿が建っていた。

     拝殿と神楽殿を兼ねた開放的な構造で、龍や動植物、ひょうたんなどを描いた天井画が見事だ。後程、境内で神事が行われるのだが、まだひと気はなく静まり返っている。
     この神社の祭神は、仲哀天皇、応神天皇(八幡大神)、神功皇后、比売大神。創建は不詳ながら、次のような社伝が残ることから、鎌倉時代には既に存在していたようだ。

     建久3年(1192)、九州では豊前豊後の大友家と、薩摩の島津家の間で合戦が続いていた。柴山の地も再三戦場になり、家や田畑が焼かれるなど、村人の生活が脅かされていた。
     これを憂えた宇佐神宮の神霊は、地元豪族・益永豊武の夢枕に立ち、自身の分霊を祀るように求めた。すると、豪族は身を清め、ひょうたんに清酒を詰めた上で、神馬を伴って神を迎え、流鏑馬(やぶさめ)や獅子舞などを奉納。こうして、柴山の地に分霊を祀ったところ、それ以来、戦火が鎮まり平和になった――。

     この故事にならい、村人達は毎年旧暦霜月に秋の大祭=「霜月祭」を催し、行列を奉納するようになったという。つまり「ひょうたん祭り」の由来は、柴山八幡社の成り立ちと不可分に結び付いているのだ。

     それにしても、何故これ程までに“ひょうたん推し”なのだろうか?

     最古の栽培植物のひとつであるひょうたんは、空洞が異次元をイメージさせるからか、世界各地の神話において、宇宙や人類の起源として神聖視されていることが多い。
     日本でも古来、ひょうたんには神霊が宿り、邪気を吸い込んで封じ込めると信じられてきた。また、そのくびれた形は末広がりで縁起が良く、除災招福のお守りや魔除けとして、あるいは家運興隆や子孫繫栄の象徴として、祭具などに広く用いられている。

     宇佐神宮においては、祭神の神功皇后が母乳をひょうたんに入れ、幼い応神天皇に与えたという伝説がある。そのため、大分県宇佐市では、ひょうたんの栽培が盛んであり、宇佐神宮の分霊を勧請した千歳町でも、ひょうたんが特産品となっているのだ。

    ひょうたん様と白濁酒の暗喩は…?

     午後1時半頃、ひょうたん様がいよいよ本格的に顕現。

     縁側に腰掛ける老人の身に、世話人らが手間取りながらも協力し、改めて異装を纏わせた。

     大ワラジは準備中、清めの神酒がたっぷりとかけられ、より一層重量が増したようだ。
     ひょうたん様が立ち上がり、高らかに宣言する。

    「一世一代の大役で大変ありがたい。無事に歩き切り、住民らの健康などを願う」

     そして、「よいしょ!よいしょ!」の掛け声とともに、一歩ずつ足を繰り出し、ゆっくりと進み始めた。待ちかねた行列の出発である。

     なるほど、これは確かに時間がかかりそうだ。というのも、ひょうたん様が10メートル程歩いては立ち止まるからだ。
     大ワラジの重さに加え、ほろ酔い状態でふらつくので、僅かな移動にも相当な労力を要するのである。そのため、沿道から「頑張れー!」といった声援が飛び、少し運動会めいた雰囲気も漂う。

     また、ひょうたん様は片足を上げた状態を維持し、大ワラジの裏側を見せる決めポーズを何度か求められ、しばらくカメラマンの撮影にも付き合う。これこそ、まさに神対応であるが、彼の主業は何といっても神酒振る舞い。
     随時、「五穀豊穣、無病息災、健康になる酒じゃあ!」と唱えながら、大ひょうたんに入る3升(5リットル強)の神酒を人々に注ぎ回るのだ。この神酒は、飲むと無病息災になるとされるため、周囲にはお猪口を差し出す者が殺到する。

     そんな人気者のひょうたん様が、うつむいて神酒を注ぐ際、長ひょうたんが時折、参拝者の頭にコンコンと軽く当たる。よく見ると、長ひょうたんの先端には窪みがあり、神酒が白濁酒であることなども加味すると、なんとなく卑猥な感じだ。

     もしかして、これは――「男根」や「生殖」の暗喩なのではないだろうか。

     祭礼行列の先導役は猿田彦であることが多く、その天狗面の長い鼻は男根の象徴とも見做されるように、ひょうたん様もまた「性器を擬人化した神様」に思えてくる。

     そういえば、南太平洋にあるニューギニア島の先住民は、「コテカ」と呼ばれるペニスケースを装着しているが、これも細長いひょうたんをくり抜いたものだ。ワラジがどんどん巨大化したのも、何処か男根サイズの競い合いのようなものを感じさせるが、どちらかというと、ワラジは女陰に相当するのかもしれない。

     五穀豊穣の祈願とはいえ、こうした読みが正しいとすれば、我々はとんでもない光景を目にしていることになる。

    「酒」の古称は「くし」といい、霊妙なことを指す「奇し」に由来するそうだが、この祭りはまさに、「天下の奇祭」と呼ばれるに相応しいだろう。

    古武士の行列が現世と異界をのんびり往復

     祭りの表面的な主役は「ひょうたん様」だが、彼の後に続く「清者(しょうじゃ)様」も中心的な役割を担う。

     清者様とは、武士の格好をした神馬の騎手。祭りの終盤に、矢を射ないものの流鏑馬として、神社前の街道を何往復も駆け抜ける。まさに、ひょうたん(様)からコマ(馬)という訳だ。

     ひょうたん様が毎年交代であるのに対し、清者様は特定の家筋の人間だけが任される。そして行列の2日前から座元の家で寝起きし、朝は近くを流れる大野川の冷水で身を清めるそうだ。

     これはその昔、用明天皇(聖徳太子の父)が柴山八幡社へ参拝する際、1人の若者が身を清め、天皇を背負って大野川を渡ったという故事にちなむ。
     若者は、天皇と直接触れ合った清い身であることから、「清者様」と呼ばれるようになったという。

     そんな清者様の他には、馬方、刀持ち、箱持ち、獅子舞、神輿などが続く。

     このうち神輿は、またもトラックの荷台に乗せられ、低速で走行する独特な渡御方法となっていた。神輿も本来、特定の家筋の者だけが担ぐ決まりであるが、明治時代に一度それを破ったところ、不思議なことに、何故か鳥居の前で神輿が動かなくなったという。そのため、以降は改めて担ぎ手の世襲制を徹底したそうだが、トラックの利用を見るに、住民高齢化などの諸事情で合理化されたのだろう。

     いずれの役者達も、先導を決して追い越してはならず、行列は全体的にノロノロ。
     それでも例年に比べるとハイペースらしく、ひょうたん様の中の人のパワフルさには恐れ入る。

     だが、1時間程かけて参道を抜け、街道を西へ進み始めた頃には、さすがの彼も疲労の色が濃くなっていた。
     神酒を求める者が減り、歩きに集中出来るようになったとはいえ、これは明らかに苦行である。

    「よいしょ!よいしょ!」

     風変りな老人が、集落の平和や人々の健康のため、必死に初冬の田園を歩き続ける。
     その姿は先述の「ひょうたんから駒」の由来となった仙人、張果老がオーバーラップしてくる。今はどちらかというと、“超過労”なのかもしれないが。

     やがて午後3時頃、ひょうたん様は集落の外れに到着。街道の両端に、幟とともに忌竹が立ち、まるでゴールゲートのようだ。大ワラジがこの境界線を通過すると、辺りに歓声が沸き起こり、ちょっとした感動の空気に包まれた。

     ありがとう、ひょうたん様。お疲れ様――。

     ところが、まだ終わりではなかった。ここは折り返し地点で、今度は来た道を数百メートル戻り、神社の御仮所まで歩くという。筆者は、夕日に目が眩みながら、意識が遠のいていくのを感じた……。
     あの世とこの世を繋ぐとされる、ひょうたん。それは「死と再生」の象徴ともいえよう。ひょうたん様一行が村境、すなわち異界との境を越えて戻ってくる行為も、同様の意味を持つように思える。

     ともあれ、ひょうたん様は午後4時頃、どうにか御仮所に辿り着き、神輿も無事に安置された。
     その後、清者様による流鏑馬が颯爽と披露され、御仮所では日が暮れるまで神楽を奉納。こうして、笑いと活力に満ちた祭りは幕を閉じたのであった。

     ちなみに、使用された大ワラジは、片方が座元の家、もう片方がひょうたん様を務めた老人の家の玄関に、朽ち果てるまで掛けられるそうだ。

    ひょうたん様の正体はキリストか?

     大ワラジはともかく、ひょうたん様の奇妙な格好の理由については、文献に記されていないため不明。豪族の益永豊武が、同様の扮装で分霊を迎えたとする見方もあるようだが……そうだとしたら、いくらなんでもお茶目過ぎる。

     地元のある郷土史家は、ひょうたん様とは火の神であり、「火王様」であると唱えている。そして、この「ひおうさま」が「ひょうたんさま」に転訛したのだという。確かに、装束が赤いことからも、魔除けや火のイメージが当てはまり、「霜月祭」に相応しいように思える。

     しかし本稿では、あえて別の可能性にも言及したい。

     長ひょうたん――すなわち、ひょうたん様の本体に注目してほしい。どことなく、その姿に見覚えがないだろうか。少なくとも筆者は、かの有名なイエス・キリストを思い出す。

    「コマ」どころではない意外な聖人が出てきたが、長い髪と髭は彼の特徴と一致するし、紙垂は茨の冠のようではないか。
     茨の冠は、キリストが磔刑の際に被らされたといわれ、受難と殉教の象徴とされるものだ。「受難」といえば、ひょうたん様が重荷(大ワラジ)とともに歩き続けるのも、キリストが十字架を背負ってゴルゴダの丘を目指したという、「ヴィア・ドロローサ(苦難の道、悲しみの道)」を彷彿とさせる。

     ひょうたん様の装束にしても、その鮮やかな色は、キリストが処刑前に纏ったとされる着衣と同じ赤(緋色)だ。ちなみにキリスト教において、赤はキリストが流した血の色ともされ、やはり受難や殉教、慈愛などを表す。

     また、ひょうたん様が携える榊の杖は、キリストが処刑前に持たされたという葦の棒のようでもある。

     さらに、8月8日が「ひょうたんの日」であるように、ひょうたんの形が連想させる数字の「8」は、キリスト教において、キリストの「復活」を意味する聖数。これは奇しくも、弱まった太陽と生命の「復活」を願う「霜月祭」とも符合する。

     こうした見た目だけの話なら、単なる偶然の一致や類似と思われるかもしれない。
     だが、豊後大野市周辺は、「隠れキリシタン(潜伏キリシタン)」と縁の深い地域なのだ。

    ひょうたんと結び付くキリシタン

     そもそも戦国時代、大分県(豊後国)はキリシタン大名・大友宗麟の本拠地で、多くのキリシタンがいたため、その墓群や礼拝堂跡などの遺跡が点在。なかでも最多の信者を擁したのが、現在の豊後大野市や隣の竹田市などを治めていた“岡藩”である。

     この岡藩は、一説によれば、藩ぐるみで信仰を隠した「隠しキリシタンの里」であったともいわれている。少なくとも、禁教の弾圧が強まるまでのしばらくの間、キリシタンに「パライソ(パラダイス)」と見做されたようだ。

     周囲を山々に囲まれ、外界から隠された楽園。これもまた、ある種の壺中天だろうか。

     さらにいえば、九州のキリシタンといえば、やはり天草四郎が思い浮かぶ。

     江戸時代、「島原の乱(島原・天草一揆)」で一揆軍の総大将を務めた彼は、指物(軍旗)にひょうたんを使ったといわれる。詳細は省くが、その由来と考えられているのが主にふたつ。
     ひとつが、大阪府章にも採用されている、豊臣秀吉の馬印「千成瓢箪(せんなりびょうたん)」。
     もうひとつが、聖ヤコブ(サンティアゴ)の伝承である。聖ヤコブとは、12使徒の1人にしてスペインの守護聖人。日本でも軍神としてキリシタンに崇められ、天草四郎の一揆軍は、進撃の際に「サンチャゴ!」と叫んだとされる。

     また明治時代には、岡藩の拠点であった岡城からも「聖ヤコブ像」と「サンチャゴの鐘」が発見されており、どちらも竹田市を代表するキリシタン遺物となっている。そんな聖ヤコブの象徴物のひとつが、彼の巡礼杖に付いていたとされる、水筒代わりのひょうたんなのだ。従って、ひょうたん自体が“隠れキリシタンの象徴”という解釈も一部でなされている。

     以上のことなどから勘案すると――ひょうたん様とは、近世の禁教以降にキリシタンによって、マリア観音の如く、密かに信仰対象にされた土着神なのかもしれない。
     そして祭りでは、キリストに擬せられた村の長老が、神道の儀式を装いつつ、ヴィア・ドロローサを再現。そうすることで、殉教者を悼み、日本におけるキリスト教の「復活」などを願ったのではないか。

     もちろん、これらはあくまで筆者の想像に過ぎない。
     けれども、実際に禁教期のキリシタンが、クリスマスを「霜月祭」と称して祝い続けたという歴史もあり、どうしても彼らの存在が見え隠れする。それに何より、ひょうたん様のご尊顔や、人々に献身的に振舞う姿からは、大いなる「慈愛」を感じずにはいられなかった――。

    影市マオ

    B級冒険オカルトサイト「超魔界帝国の逆襲」管理人。別名・大魔王。超常現象や心霊・珍スポット、奇祭などを現場リサーチしている。

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