紫式部は地獄に落ちた! 「源氏物語」執筆は「不妄語戒」か仏の導きか?/鹿角崇彦
今年もっとも注目されている歴史のヒロイン、紫式部。平安屈指のこの大作家は、ある時期「地獄におちた」との噂を立てられていたことがあった!
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怪談・オカルト研究家にして作家の吉田悠軌が、古典から「都市伝説」まで古今の名作怪談をリライトし、恐怖の核をひもとく新連載。初回に選ばれたのは、1000年にわたり読み継がれるあの物語に潜む、怖ろしくも切ない人の想い。
「光君の恋多き人生についてはみなさんよくご存知でしょう。ただ恋とは華々しいだけでなく」
時には怖ろしい怪異をもひき起こします……。〝藤原さん〟はそう語る。
藤原さんは光君――われわれが「光源氏」と呼ぶ男性について最もよく知る人物だ。それどころか彼の恋愛遍歴をとりまく幾多の女性たちについても、行動から内面、そして人間関係にいたるまで熟知している。光君にまつわる怪談を説明してもらうには最適の人選だろう。
「光君は17歳にして数多くの恋愛を経ていました。結婚5年目となる葵の上との夫婦生活にも冷め、亡き兄の妻である六条御息所と愛人関係になったものの、その不倫にも没入できず……。今の人からすれば、ずいぶん早熟な男に見えるでしょうね」
そんな夏の日。乳母の見舞いのため五条を訪れた光君は、夕顔の蔓が印象的な屋敷を見つける。そこに住む謎の女主人と和歌を交わしたとたん、たちまち彼女に心惹かれてしまう。まだ顔も名も知らぬ「夕顔」の素性を探りつつ、さまざまなアプローチを重ねた光君。季節が秋へと変わるころ、ついにふたりは対面することとなる。
8月15日、中秋の名月がのぼる夜明け前。光君は人目を避けるため、隠れ家さながらの別邸へと夕顔を連れ込んだ。藤原さんは明言していないが、おそらく五条大橋の西詰、鴨川沿いにあった河原院だろう。袖まで濡らす霧、生い茂る雑草と木々、水草に覆われた池……そんな描写から、水場特有のじっとりとした湿気が伝わってくる。
そこで体を寄せあうふたりだが、日が高く昇り、また山の端に落ちても、夕顔は自らの名も素性も明かさない。光君もまた自分がだれかを語らず、つい葵の上や六条御息所を思い出してしまう。ほの暗い水底のような廃屋で、隔たりの埋まらぬ愛が交わされていく。
やがて夜の帳が下り、うとうとと眠りかけた光君は不穏な気配に気づいた。いつのまにか枕元に、ひとりの美しい女が座っている。
「私がどれほど慕っているかも気にせず、こんなどうでもいい女を連れまわし愛しているなんて……本当にわからない、つらい」
そういいながら女は、すぐ傍らで眠る夕顔へと手を伸ばした。慌てて飛び起きると、灯も消えて周りは真の闇。怖ろしさから太刀を取り、「灯りをつけてくれ」と侍女に呼びかけるが、暗すぎて動けないと返される。人を呼ぼうと手を叩いても、闇のなかで無気味に反響するばかり。そこで目を落とせば、汗だくになった夕顔が激しくうなされているではないか。
侍女に介抱を命じた光君は、風の吹く暗い屋敷内を駆け回った。供のものたちを叩き起こし、警備をいいつけた後、またもとの寝所に戻る。すると侍女までもが夕顔の横で突っ伏し震えている。
「どうした。こんな荒れ果てた場所には狐の類いが出て、人を脅かすものだ。私がいれば大丈夫だから」
「怖ろしくて顔を上げられません……お嬢様もすっかりおびえて……」
「そうだ、なぜこんなにも」
と、手探りに夕顔の体をまさぐったところ。
彼女はすでに息を引き取っていたのである。
「謎の突然死です。亡骸は鳥辺野ので火葬されました。光君もしばらく心身ともに衰弱され、物の怪に憑かれたのではとも噂されたほどで」
夕顔は物の怪に殺されたのか。光君の見た枕元の女はだれだったのか。その点について藤原さんはなにも解説していないため、われわれが推測する他ない。夕顔をとり殺したものの正体は、おそらく次の怪談にも関わる人物ではなかったのだろうか。
それから5年後、葵の上はめでたく懐妊した。しかし光君と六条御息所との愛人関係はまだ続いており、この不倫は周知の事実として知れ渡っていた。光君は妻の妊娠を喜んだが、当の葵の上は公然たる夫の浮気と、ひどいつわりに悩まされていた。
六条御息所も同様だ。光君の曖昧で不義理な態度と、その正妻の懐妊に煩悶を募らせていく。さらに彼女のプライドを傷つける事件も勃発した。気晴らしのため、賀茂祭の見学へと牛車でひっそり向かった御息所だが、そこで葵の上一行の牛車と出くわす。事情を知る葵の上の従者たちは、邪魔な御息所の車をどかせといきりたった。こちら側の従者も抵抗するが、「その程度のものに大きなことをいわせるな」と牛車ごと隅に押しやられてしまう。
そこへ祭りの参列者の光君が到着。打ちひしがれた御息所は、せめて彼の姿をひと目見ようと雑踏をかきわける。しかし光君は彼女に気づくことなく、葵の上の前で恭しく顔を引き締めた後、颯爽と通り過ぎていった。そんな出来事の後、葵の上に異変が起こる。
――葵の上に物の怪がとり憑いた。街の噂どころか家人たちがそう騒ぐほど、彼女の体調は悪化した。なんとか妊婦を救おうと、僧侶の加持祈禱、陰陽師の占い、霊媒の口寄せなどが行われる。亡くなった彼女の乳母だの先祖代々祟っている霊だの、霊媒の口を借りて数多くの生き霊・死霊が名乗りをあげるが、祟りの本丸は別にいるようだ。口寄せには乗らず、ひたすら葵の上のそばを離れない、なにものかが。
一方の御息所は同じ悪夢を見つづけていた。美しい葵の上を乱暴に打ち据えている夢である。さらに正気を失うことが多くなり、目覚めるたび体にある匂いがこびりついている。髪を洗い、着物を変えてもその匂いは消えない。これは明らかに加持祈禱で焚く芥子の実の匂いだ。ということは、つまり。
「違う。私は他人なんて呪わない」
いくら必死に否定しても、心の中の怨念を、そして人々が自分の悪い噂を囁いていることを痛感せざるをえない。
衰弱が進むなか、葵の上が急に産気づいた。なぜこんな早い時期に、例の執念深い怨霊が傍にいるのにと慌てた高僧たちが、なんとか調伏せんと加持祈禱を重ねていたその最中。
「少し儀式をゆるめてください。大将に申し上げたいことがあります」
葵の上が苦しげに呟いた。急いで光君を几帳のなかに入れ、両親と女房たちはその場を退く。出産の白装束に長い黒髪が垂れさがり、腹が高くせり上がった妻を見て、これほど美しい人だったかと驚いた光君は、思わずその両手をつかんで。
「あまり思いつめないで。すぐによくなります。たとえ万が一のことがあろうと、私たちは夫婦なのだからすぐまた逢えますよ」
言葉を尽くして慰めた、そのとき。
「いいえ違いますよ」と、妻ではない声がささやいた。
「私の身が苦しいから、祈禱をやめてほしいのです。まさかここにこようとは思ってもいなかったのに……悩み苦しむものの魂は、こうしてさまよい出てしまうのですねえ」
六条御息所の声だった。少なくとも光君にはそう聞こえた。
「あなたはだれだ。はっきりと名乗りなさい」
震える声で尋ねたが、相手はなにも答えない。しかし彼にはもう見えていたのだ。妻の姿が、御息所そのものになっているのを。
「……まもなく赤子が産まれました。しかし葵の上はそのまま苦しみつづけ、数日後、この世を去ってしまったのです」
藤原さんの語り――紫式部の記した『源氏物語』には、夕顔や葵の上を六条御息所の生き霊が殺したとは明示されていない。特に「夕顔」帖に出現する女の正体については各所で見解がわかれている。ただし「葵上」帖となると、御息所の悩める心情の詳細な描写が、悪霊に苦しむ葵の上のシーンとのカットバック形式で語られている。御息所の怨念が、愛する人の子を産む正妻へ祟ったとみるのが素直な読解だろう。
こうした生き霊の描かれ方は、現代の実話怪談とも共通している。たとえば私の取材した怪談では、とある女性の家庭に女の霊らしきものが出現し、家族に不幸が連続していた。後にそれが夫に恋慕していた女性同僚とそっくりだったと(夫から)語られるのだが、同僚のほうはいっさい生き霊を飛ばしていたという意識がない。そしてある時期を境に女の霊が姿を消すことで問題が解決する。それは女性同僚が謎の急死を遂げたからだった……という話もある。
現代人の生き霊も、その多くが恋愛絡みの煩悶を背景とし、本人の意志とは関係なく憎い恋敵のもとへ飛んでいく。さらに生き霊を出現させていた側は、そのために心身を衰弱させ、最悪の場合は死に至るというケースも散見される。むしろ「私は別に気にしていないから」と恋愛感情や嫉妬を押し殺しているものほど、その奥に渦巻く無意識の怨念を自身の似姿として発現しがちだ。これは1000年変わらぬ生き霊怪談の典型パターンのようである。
生き霊は本人の知らないうちに飛んでいく。逆にいえば、生き霊とはむしろ飛ばした本人の認識よりも、対象者たる恋人・恋敵・その周囲の人々が「〇〇に生き霊を飛ばされた」と認識することによって生じる怪異なのだ。本人が生き霊を飛ばしたと自覚するのも、それら他者の認識を知ったからこそとなる。
夕顔の死の直前、光君が枕元に見た女は御息所だったのだろう。自尊心の溢れた女の発言からもそう察せられる。だがそれはあくまで半睡眠状態の彼がつくりだした、御息所への罪悪感の表れだったともとれる。そもそもこの廃院の逢瀬は、敢えて互いに素性を明かさぬ歪んだ恋愛だった。特に夕顔はこうした関係に対して恐怖心すら抱いていた。実際に生き霊に攻撃されたかどうかではなく、光君が別の恋人の生き霊を怖れる様を目の当たりにしたこと。それが彼女にとって、絶命に繋がるほどの畏れを引き起こしたのではないか。
人はそうしたことで死んでしまう。「人を恨む気持ち」には限りがあるが、「人に恨まれたという恐怖」は際限なく強まるからだ。特に平安京の貴族のような、共同体の関係性こそがアイデンティティとなる人々にとっては。
葵の上の病状は、現在いうところの妊娠中毒症だったかもしれない。しかし六条御息所の生き霊が祟っているとの噂は京都中に広まっていた。葵の上自身も、光君ら家人もそのように認識していた。御息所の悩みの焦点にしても、自身が本当に生き霊を飛ばしているかどうかより、むしろそうした言説が人々に広まっている状況にこそあった。
葵の上の憑依も、こうした背景から説明がつく。死を察した葵の上は最後の力を振り絞り、自ら六条御息所となったのではないか。御息所への罪悪感や恨み、不倫を長年続けた光君への糾弾などさまざまな感情の発露として、彼女は恋敵を憑依させた。そんな妻を前にした光君が、御息所の声を聞き姿を見たのは無理からぬことである。
ではその憑依は「嘘」であり光君は「幻覚」を見聞きしただけ、生き霊など実在しなかったのかといえば、それもまた違う。
葵の上の憑依は単なる嘘ではなく、彼女自身も心底から御息所に乗り移られたと信じていたはずだ。光君の見聞きした声と姿も、他者が幻覚と片付けるのは勝手だが、彼にとっての確かな実感だった。夕顔と葵の上の死にまつわる諸々の事象は、紛うかたなき「怪異体験」である。
夕顔と葵の上、光君や名もない脇役たち、そして御息所自身すら含む全員が六条御息所の生き霊を信じ、おびえていた。物理的存在ではなく、共同体の関係性が紡ぎだす存在という意味で、生き霊は確かに実在していた。というよりも生き霊とは、そうした人間関係の歪みの反映としてしか存在しない。
そのことを『源氏物語』の各パートは余すところなく、的確かつ繊細に提示している。怪談史・文学史全体を見渡しても、これに比肩する描写はあるだろうか。生き霊怪談の決定版は、1000年以上も前に語り尽くされていたのだ。
(月刊ムー 2025年1月号掲載)
吉田悠軌
怪談・オカルト研究家。1980年、東京都生まれ。怪談サークル「とうもろこしの会」の会長をつとめ、 オカルトや怪談の現場および資料研究をライフワークとする。
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