「地鎮」を侮るなかれ! 前橋の土地神・長壁大神の怪異譚
山河を鎮め、かしこみかしこみ神を鎮める「地鎮」の儀式。それは安全と平和な暮らしを祈願するためのものだが、もしも誤ると大変な結末を招くこともある、恐ろしいものでもあった。
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日本で伝説的に語り継がれてきた霊媒は数多いるが、その能力の非凡さと多彩さにおいて、まさに希代の霊媒と呼ぶにふさわしい人物──それが、本吉嶺山(もとよしりょうざん)である。 本吉嶺山とは何者だったのか。記録に残された彼の能力の片鱗をトレースしながら、その人物像に迫ってみたい。
目次
自動書記や霊視などの主観的心霊現象と、物品引寄・縄抜け・透視などの客観的(物理的)心霊現象をひとりで行うことのできる霊媒は少ないが、その両者を兼ね備えて非凡な能力を発揮したのが本吉嶺山(もとよしりょうざん)で、とりわけ彼の遠隔透視は、三田光一に比肩するほどの正確さがあった。
嶺山の能力がいかんなく発揮されたのは魚群の探査だ。一時期、彼は千葉の大原町小字小浜という漁村に住んでいたが、そこの網元たちは、「嶺山のいわゆる『うかがい』(自動書記と霊視)なるものによって網を入れ、船を進め、十年来、単独の見込みで網を入れたものにほとんど成功したものはないといっても宣いほど」だったと、元新聞記者で大衆作家の安岡夢郷が書いている(「嶺山実験記」「心霊と人生」)。
嶺山による精密かつ正確な魚群透視は、こんな感じで行われた。
「嶺山の精神が統一すると、嶺山の魂は小浜の海岸から太平洋上に飛び出すのである。水面から二間あまり上を、嶺山の魂が縦横に飛び回る。そうして魚群を発見すると、魚の背ばかり見ても種類がわからないから、今度は魂が海の中に沈んでゆく。嶺山にはそれが海の断面がセリ上がるように見える。そうすると魚族を横から見ることができて、鯛だ、鯖だ、鰯だとわかる。ま
た、その位置に漁師がやるように、太東岬の岬角、または八幡岬、あるいは大原停車場の屋根などから角度を取って、漁場の名称を起点に、沖へ何町、あるいは東西南北へ何町と指定する。それがちょうど、袋の中の物を探るように一回として外れた実例を聞かない」(同前)
その実例のひとつを、妻の秀子が心霊科学協会の座談会で語っている。不漁続きで莫大な赤字を抱えていた通称「亀の子」という小浜在住の親方のために嶺山が行った魚群透視だ。嶺山は亀の子に、こう指示した。
「波打ち際から一里くらい沖に行った所に菜っ葉色といって青色がずっとある。その帯広の所にはブクブクと泡をふいているから、そこに網をかければ今、鯛が卵を生みに来ているから鯛がうんと獲れる。例えば大雨が降ろうが嵐になろうが、外の船が帰って行ったって、帰ってきてはいけない」(「本吉嶺山の思い出⑴」『心霊研究』)
透視は完璧に的中し、3万貫(112.5トン)の漁獲があった。こうしたことが重なったため、親方たちは嶺山を漁師の神様と崇め、他に転居されないよう家を新築して嶺山一家に提供したのである。
この透視法は、人体に対しても用いられた。
「まず精神が統一すると、その人の全身が現れ、その全身が消えて病源の箇所だけが残る。時にその病源から他の箇所に影響している場合は、白い線となって現れる。たとえば胃癌の患者だとすると、大きく胃だけが残って、ぽつりと一つ、白い玉が浮く。その白い玉が胃の中をぐるぐる回りながら、ちょうど暗闇の中で懐中電灯を白壁に向けたように、玉の当たる箇所だけが明るくなって、最後にぴたりと留まったところが小さく腫れ物のように膨れている」(宇佐見景堂『霊媒本吉翁』)
嶺山は、魂となって海にも人体にも自在に潜った。そして、実際、霊視通りの漁獲や治病が実現したのだが、その能力を金儲けのために用いることはなかった。もともと嶺山自身が金銭に無頓着だったことに加え、彼の守護霊である天空や峯姫が潔癖そのもので、物欲を激しく嫌ったためである。
嶺山を教祖に祭りあげる動きは当然あった。けれども嶺山は、拒んだ。「教会を作るな」という彼の遺言が、その人となりをよく表している。
嶺山こと本吉貞吉は、明治16年10月、千葉県東村(現・長南町)で生まれた。鰹節問屋の店員、逓信省の電気工を経て、明治37年、日露戦争に従軍。帰還後に秀子と結婚して八王子で電気関連の仕事を続けていたが、自転車運転中の傷がもとで破傷風となり、左足の脛から下を切断した。日露戦争で片足を失ったと書いているものがあるが、それは間違いだ。
手術後、一家は八王子から早稲田の鶴巻町に移った。当初は駄菓子店をやっていたが商売にならず、秀子の内職でも家計の維持が困難だったため、嶺山はむかし習い覚えていたモーターの修繕販売を始めた。
そんな折りの大正2年7月、友人に誘われて埼玉県笹目村の梅の木稲荷に参拝した。ちょうど神降ろしをやっていたのでながめていると、神憑りした少女が突然幣を放り捨て、オジサンといって嶺山にすがりついてきた。
「何事が起こったのかと、びっくりしまして、何と返事をしようかと思っている間に、急に気が遠くなって、そこに倒れて終わったようです」(嶺山が宇佐見景堂に語った述懐、宇佐見「霊能開発の動機と実際」)
梅の木稲荷は大正2年3月、埼玉県笹目村(現戸田市)に創始された今来の流行神(いまきのはやりがみ)で、嶺山が詣でたのは開創からわずか5か月後のことだ。
前年暮れ、地元農家の7歳になる娘のお幸が、突然「おじょんちゃんが来た、おじょんちゃんが来た」といい出したのが発端で、以来、神異が連続し、ついにお宮の創建となった。当時300戸しかなかった笹目村がにわかに賑わい、お宮に至る道筋にはたちまち300軒もの商家が立ち並び、最寄りの蕨駅の乗降客が月間7万人前後にもなったと、当時の「都新聞」が報じている。
お幸に見えていたのは、被布(かつて公家や武家の妻などが羽織っていた上着)をまとい、赤い袴をはいた「おじょんちゃん」の霊で、稲荷神眷属の狐の類いではない。
この女性霊が、嶺山に神懸りしたのである。
嶺山は神懸り後の記憶を失っているが、妻の秀子がこう回想している。
「土足のまま上りこんで来るのです。私が注意しても口を全くききません。それはおそろしいひどい人相になっていました。子供が呼ぶといきなりとびかかって来て、子供がおどろいて泣き出すと、主人は台所から包丁を持ち出して来てふりまわすのです」
この状態が3日続いたが、正気に戻る様子はない。もはや精神科病院に入れるしかないと話していると、突然、嶺山の口がひらいた。
「何も困ることはありませんよ。私はねえ、本吉を助けに来たのですよ。……私の云うようにして下されば、この家を護って数万の人を助けながら本吉の家を助けるから、私の云う通りにして下さい」
これが嶺山に憑った「おじょんちゃん」霊の初発の言葉で、名を峯姫といった。秀子は峯姫の求めに応じて裏庭にお宮を建て、神主を迎えてお祀りした。後に峯姫とは徳川11代将軍家斉の7女・美子の霊だと判明する。この峯姫の口開けで、嶺山の異常行動がピタリと止んだのである。
「主人はもうよろこんでニコニコしましてね。……日が暮れると裏の木戸を開いてそっと出てゆき、大きな井戸で水をあびました。今まで神様に手をあわせた事のない人が何と不思議な事をするものだと私は思いました」
かくして嶺山に霊界への道が開けた。無信心の嶺山が、これを契機に信心一筋の霊術家へと一変したのである。
嶺山の評判は、ほどなく近所に広まった。嶺山が禊に使っていた井戸水を飲むと、病人がたちまち癒える。尋ね事には何でも答え、不思議と当たるというので人々が押し寄せた。嶺山の神憑りも頻繁になった。
大正2年7月に峯姫が憑ってから、わずか2か月後の9月にはお宮が建ち、10月になると近所の世話役が高田馬場近くの源兵衛村(東京府南豊島郡戸塚村)に1000坪の地所を買い、立派な神社を創建するまでになった。
峯姫稲荷講社はほどなく3000人の講員を擁するまでになったが、繁盛は長続きしなかった。世話人が一儲けを企んでお宮の前に浅草のような仲店まで出し始めたので、物欲を極度に嫌う峯姫が怒ったのである。
「神様は、とに角このお宮を出よ、こんな心のきたないところには住めないとおっしゃるのです。……体一つで何も持たずに出ろと」(秀子)
これは大正5年ごろのことらしい。一家は出奔して目白に転居した。世話人が激怒して嶺山に殴る蹴るの暴行を加える騒動もあったが、嶺山はもどることを断固拒否し通した。ここから嶺山の山岳修行が始められる。
その最初は大正5年暮れの富士山での寒行で、それを終えると6年5月から木曽御嶽山での3年余にわたる修行に入った。家族を放置したまま、ひたすら修行に明け暮れたらしく、3人の子を抱えた秀子の生活は困苦を極めたが、家財を売るなどして木曽に送金し、嶺山を支えつづけた。秀子のこの献身がなければ、嶺山という傑出した霊媒はこの世に存在していない。
当時、嶺山は修験の修行を積んでいたらしい。彼の指導は、最初は峯姫だったが、後に峯姫と因縁でつながっている天空霊が中心となった。
峯姫は水戸徳川家の治紀(はるとし)の世子斉脩(なりのぶ)の正室に迎えられているが、天空も水戸藩士で、俗名を朝倉平右衛門といった。つまり峯姫は主筋にあたる。水戸藩御蔵番を隠退後、磐城の閼伽井(あかい)嶽に籠もって山中修行に取り組み、30余年を山中で過ごした末に没した。この天空霊が、自分も行っていた山岳修験に嶺山を導いたものらしい。
大正8年、御嶽山修行を終えて目白にもどったとき、嶺山は自動書記ができるようになっていた。当時の嶺山を、秀子はこう回想している。
「主人は、人が来ましてその人の事がよくわかりましても、聞かれるまでは何も云いませんでした。……神様にとめられているので、聞かれるまでは、そして聞かれた事以外はいわないと申しました。又、星の転換と申し、この者にはこういう星をつければ長生きする、子供のない者にはこの星をというように、全部星でやる方法を天空様が編み出しました」(「本吉嶺山の思い出⑵」『心霊研究』)
秀子のいう「星の転換」は、天空が死後に編み出した星を操作する霊術の一種で、「宿星転換修法」と呼ばれている。人事百般に応用されるが、最大の眼目は運気の転換だとされている。
宿星とは、天体としての星ではなく、一種の運気のことらしい。宝金星、金瑚明保星、金光瑚明保星、龍清明保星、天運速龍明保星など多くの星名が伝えられているが、由来はまったく不明で、天空霊のオリジナルと思われる。
天空によれば、天界は12の階層から成る。神界を最高位として霊界・幽界・現界が連なる。人間が自力で到達できるのは最下層の第一天界までだが、宿星法を修することで、それより上(第二天界〜第十二天界)の天界にアクセスし、運命の転換が可能になるというのが天空の教えで、具体的には、修法用の霊札(表に神代文字風の異体咒字、裏に祈願人の姓名・年齢・祈願内容)を謹製して天空霊神・天啓霊神・守護霊などの降神行事を行い、定められた方位に向けて霊札を安置し、真言・手印・九字切りの神法を行った上で霊札納めの箱に納め、赤白の水引で結ぶ。この操作を繰り返すのである(天空直伝の宿星転換法は宇佐見景堂『神機霊通秘巻』に収載)。
戦後、嶺山を名古屋の霊相道に招いた宇佐美は、この修法の過酷さを力説している。というのも、最も手近な第二天界へのアクセスでも432回の霊札操作が必要で、最高天である第十二天界へのアクセスである大伍行宿星転換では、霊札3万6720枚を用意し、その一枚一枚について神法を厳修する必要があるというからである。
天空霊の指導のもと、嶺山は昭和26年に大伍行宿星転換修法に到達したというが、「この最高位の宿星を修めるに四ヶ月百二十余日の日数を要し、再びこの修法に奉仕することを断念」したと宇佐美は書いている。
修法に際して用いられる呪言は、密教の真言陀羅尼から来たと思われるもののほか、由来・意味ともに不明なものが多数ある。たとえば天空霊神の降神行事で用いられる呪言は「アハリヤアストマヲサヌコノアサクラニ天空霊神アマクダリマセ」で、日本の神詞に由来するようだが、宿星転換修法で常用するという呪言「ウンバアンオンコロビエイカウン」は、真言由来のものに相違ない。いずれも天空霊が死後、神霊界における研鑽修業によって修得したものらしいが、嶺山自身が何も書き残さず、宇佐美もまた経緯等の詳細を記録していないため、すべては謎のままなのである。
話を嶺山にもどそう。
山岳修行の後、一家は嶺山の地元の千葉にもどり、網代湾(御宿浦)に臨む夷隅郡御宿(いすみおんじゅく)村に腰を据えた。けれども冒頭に書いた魚群探査で網元たちが嶺山に頼りきるようになり、一軒家を寄進したため、本吉一家は、御宿から小浜に移り、霊査や病気治しを続けていた。
もし彼がそのまま小浜で活動していたなら、われわれは彼の存在を知ることはなかっただろう。嶺山が世間に知れるようになったのは、浅野和三郎が主宰する東京心霊科学協会の専属霊媒となり(昭和6年)、すさまじい勢いで物理霊媒としての能力を開花させていったからである。
専属霊媒になる以前、東京に本吉嶺山後援会が組織された。けれどもこの会には、かつての峯姫稲荷講社と同様、嶺山を利用して一儲けを企む山師がいた。峯姫や天空がそんな動きを許すわけはなく、結局、会は破綻した。このとき、浅野と嶺山の間をとりもったのが前出の安岡夢郷だった。
昭和6年当時、浅野が富士見町に開設した東京心霊相談所の専属霊媒には、中西りか子、小林壽子、北村榮延らがいた。
この時点での相談所の「取扱事項」は「(イ)病気調査並に治療の方針。(ロ)人事物件の調査。(ハ)招霊其他各種の実験。(ニ)事業適否の鑑識並に援助。(ホ)心霊観相」だった。
ところが嶺山が加入すると「取扱事項」が一気に増え、「(イ)招霊実験。(ロ)病気診断。(ハ)事業の適否、商機の捕捉、自己の適職、縁談の良否、煩悶の解決、学業の選択、其他人事百般の調査鑑定。(ニ)漁場、鉱脈其他の示定。(ホ)無痛分娩、安産の援助。(ヘ)守護霊、支配霊の呼出し。(ト)因縁解除並に不良霊の処理」となった。
このうち漁場・鉱脈等の霊視は嶺山の最も得意とした分野であり、病気診
断や治療法の教示(天空は薬石の種類、分量、服用法まで自動書記で下ろした)、人事百般の調査鑑定、出産関係の霊術も同様で、嶺山が加わって相談所は大いに活気づいた。浅野和三郎が、嶺山の加入を「人物払底の日本心霊学会に取りて何よりの慶事」と大歓迎したのも当然だったのである(「日本心霊界の現在将来の展望」『心霊と人生』)。
物理霊媒としての嶺山は数々の物理的心霊現象を行っているが、最も注目されるのは物品引寄せだ。これは晩年まで続いた現象で、関係者の証言もある。一時期は、嶺山の身辺で「毎日のように物品移動が行われ」た。後年のことだが、こんな様子で物品が移動したと秀子が述懐している。
「沼津の(本吉)宅から(東京の)岡田さん宅へは度々色々の品を引き寄せられました。その都度、岡田さんからお電話で『今、仏像が来ました』とか、『水晶の玉が来ました』とか。その度に『神前を調べて下さい』と云われ、私は調べては『ありません』とお返事いたしました。あちら(東京)から(沼津の本吉宅に)来た事もあります」(「嶺山の物品引寄せ」)
物理現象は天空や峯姫ではなく、ゼニールという名のインド霊が主導したといわれる。亀井三郎のモゴール霊と同様の働きを、ゼニールが行ったわけだ。また、因縁にからむ病気は羽黒権現の眷属の元龍が主に行ったというか
ら、嶺山の身辺には、常に数多くの神霊が活動していたのである。
表現の場が与えられたことで、嶺山の能力は急速に開花していった。けれども昭和12年に浅野和三郎が逝去し、昭和15年秋に華族会館で催された協会による心霊写真展が当局の忌避に触れて嶺山も逮捕されたことなどが契機となって、協会とは疎遠になった。
疎遠になった理由のひとつは、心霊科学協会が霊媒をあくまで心霊実験の道具として扱ったことにあっただろう。天空や峯姫が嶺山を導き育ててきたのは、彼を実験霊媒にするためではなかった。霊術による人々の救済が目的であり、あたかも見世物のような心霊実験によい感情をもっていなかったことは、容易に想像がつく。だからこそ天空は物理実験に顔を出さず、そうしたことが得意なゼニールに任せていたのである。
敗戦後の昭和22年、嶺山は宇佐見景堂の求めに応じて、人助けのための宗教活動に専念するようになり、交霊会を主な活動舞台とする実験霊媒とは縁を切った。宿星転換修法を完成させたのは、この時期である。
逝去は昭和33年3月10日。
秀子によれば、「他界の日迄の六十日間は断食状態をつづけたが、意識はハッキリしていた。また、死の前日親戚知人と御別れの挨拶をしたが六十日も断食を続けていた人と見えない位であり、十日早暁、死ぬ時は睡る如き大往生」を遂げた。本吉嶺山が駆使した種々の呪文や未知の祝詞、星宿転換法、透視法などは、嶺山一代かぎりの秘法として、彼の魂とともに霊界に還ったのである。
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