漢字を発明したのは日本人だった!? 古代中国・殷王朝と縄文人を結ぶ亀卜とタカラガイ/権藤正勝

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    今から2万年前――。東アジアの文明を生んだ揺りかごのような大陸が存在していた。古代の日本と中国をつなぐこの大陸がわれわれにもたらしたものとは何なのか?

    驚くほど共通する古代日本と殷の文化

    「殷(いん)王朝」――古代中国の王朝だが、名前はだれでも聞いたことがあるだろう。殷王朝は、考古学的にその存在がはっきりと確認されている中国最古の王朝である。「商(しょう)」とも呼ばれ、国際的には「商王朝」が一般的だ。英語でもその音から「Shang Dynasty」と呼ばれている。本稿では、日本で一般的な呼び名である「殷」で統一する。
     殷は、紀元前1600年ごろに中国の中原(黄河中下流域)で始まった王朝である。殷が滅亡した年に関しては諸説あるので正確なことはわからないが、紀元前1046年に、周(しゅう)によって滅ぼされたとする説が有力である。

    殷の最後の王となった紂王(ちゅうおう)。歴史上まれに見る暴君で、国家滅亡の原因となった人物とされている(『絵本三国妖婦伝』より)。
    殷(いん)時代の「人面青銅器」。殷は、非常に豊かな青銅器文化があったことで知られている。 奈良時代以降、日本でも亀の甲羅を用いる「亀卜(きぼく)」が主流になった。なお対馬の雷神社ではでは、いまもこの亀卜が行われている。

     ところで、中国の古代王朝であるはずの殷だが、なぜか日本と文化的に共通する部分が多いといったら驚くだろうか。殷と日本の不思議なつながりを順を追って見ていくことにしよう。
     まず殷王朝の宗教観であるが、殷王家は太陽神の末裔を名乗り、太陽崇拝が行われていた。殷王は、祭祀王であり、国の政まつりごとと祭祀は完全に一体化していた。つまり、殷王は、シャーマンであったのだ。
     殷王は、すべての政を、卜占(ぼくせん)で決めていた。また殷では祖先崇拝が非常に強く行われ、常に祖先を敬い祭祀が行われていたという。つまり国を動かしていたのは神々や祖先など、目には見えない存在といえるかもしれない。

    弥生時代の日本では鹿の肩甲骨を使って占いが行われており、「太占(ふとまに)」と呼ばれていた。
    奈良時代以降、日本でも亀の甲羅を用いる「亀卜(きぼく)」が主流になった。なお対馬の雷神社ではでは、いまもこの亀卜が行われている。
    殷で用いられた亀卜の亀の甲羅。日本とは異なり、甲羅には文字が刻まれ、そこに入るひびで未来を占った。

     殷以降の中国王朝でも、もちろん祭祀は行われていたが、すべてのことがらを占いで決めるようなことはなくなっている。周以降の王朝では、生きている人間の道徳規範を中心に据えた儒教的思想が芽生え、徐々に律令制度を発達させていった。
     要するに、殷の文明は、後の中華文明と根本的に異なるといえる。

     一方、日本を見てみると面白いことがわかるだろう。神道における最高神は天照大神(あまてらすおおみかみ)で、「日出(ひい)ずる国」と自称するように、太陽信仰が古代から現在まで続いている。もちろん祖先崇拝も、いまだ強く行われていることは、だれでも知っているだろう。
     さらに、弥生時代の日本を知る資料に「魏志倭人伝」があるが、邪馬台国では、シャーマンであった卑弥呼が、祭祀王として君臨しており、さまざまなことがらを祭祀で決めていたことがわかっている。

     殷で政を占う方法は前述のように、小さな穴をあけた亀の甲羅や動物の肩甲骨に、熱した金属棒を差しこみ、表面にできた割れ目を見る卜占という方法である。弥生時代の日本でも同様に鹿の肩甲骨を使った占いが行われており、「太占(ふとまに)」と呼ばれていた。奈良時代には、亀甲を用いた占いが主になり、こちらは「亀卜(きぼく)」と呼ばれた。
     中国では卜占は、殷の次の周の時代からすたれはじめ、唐の時代には完全に行われなくなった。だが驚くことに、日本では現在も宮中や神社などで儀式の一環として行われている。
     まだ記憶に新しい今上天皇の即位の際に行われた大嘗祭においても、儀式に使用する稲を収穫する斎田(さいでん)の選定には、亀卜(斎田点定の儀)が用いられたのである。
     長崎県対馬の雷神社でも、毎年、吉凶を占う「亀卜神事」が行われている。中国では、すでに考古学の分野で扱われる1500年以上も前に途絶えたことがらが、日本においては日常として、いまだに行われていることになる。
     このように日本文化には、古代はもとより、現在においても殷の文化と共通するものが多く見られる。なぜこのようなことが起こったのだろうか。

    漢民族の国ではない? 王朝成立にまつわる謎

     一般的に、中国の歴史は、中原で始まった漢民族の歴史(黄河文明)だと思われている。だが、これは間違った認識である。今では、漢民族と関係がない長江文明も同じくらいの古さであることがわかっている。
     さらに黄河文明においても、漢民族の王朝は、殷の後の周からである。殷王朝を成立させたのは漢民族ではなく、「東夷(とうい)」と呼ばれた人々が主体だった。東夷という呼び方が確立したのは、漢の時代であるが、漢民族の住む中原から見て、東のほうに住む異民族の総称で、野蛮人という意味を含んでいる。
     つまり、殷王朝を建てたのはもともと中原に住んでいた人々ではなく、東のほうからやってきた民族だったのだ。

     では、なぜ今でも中国の歴史全体を漢民族の歴史とする考え方が普及しているのだろうか。
     ひとつには、現在の中国を支配するのは漢民族で、圧倒的人口を誇っているために、中国の歴史イコール漢民族の歴史であってほしいからだろう。また長い間、殷は伝説上の王朝であった。その存在が確実になったのは、20世紀に入ってからである。
     さらには、殷王朝を成立させた民族が中原の民ではないということがわかってきたのは、つい最近のことである。今では、最初の漢民族の王朝とされる周も、実は「西夷(せいい)」と呼ばれる西の異民族により建てられたのではないか、という説も出ているほどだ。
     ところで史書によると、殷王朝は天乙(てんいつ)が夏(か)を滅ぼして建てた王朝だとされている。夏王朝に関しては、いまだ明確な存在として考古学的には確認されていないが、中国の史書の正しさから、存在したことは間違いないだろう。
     だとすれば殷と同様に、夏王朝も東夷と呼ばれた人々の王朝だったと考えられる。では、東夷とは、どのような人々だったのだろうか?

    縄文土器に見られる日本と中国の共通点

     東夷とは、中国中原から見て東に位置する蛮族の総称である。したがって朝鮮半島や日本列島も含まれるのだが、古い時代においては、中国本土の山東省あたりの人々を漠然と指していたものと思われる。
     彼らは、広く交易を行う海洋民族だった。殷を「商」と呼ぶことはすでに説明したが、その商の人々が商売に長けていて広く交易を行っていたことから生まれた言葉が「商人」である。
     そんな殷の人々が、交易を円滑に行うために使用したものが、東アジア初の貨幣だった。殷の貨幣は、「貨」の文字が示す通り「貝貨(ばいか)」という貝のお金で、「タカラガイ」の殻が使われた。そのタカラガイの主な産地は、なんと沖縄から奄美にかけて、日本の南西諸島なのだ。
     このように、タカラガイが貨幣として殷王朝で広く使用されたことから、殷を建てた人々が、南西諸島とも活発な交流がある海洋貿易民であったことがわかる。このことは、殷において卜占に、海亀の甲羅が広く使われたことからも明らかである。

    殷で用いられた東アジア初の貨幣「貝貨」。「タカラガイ」の殻が使われたが、その主産地は日本の南西諸島だった。

     殷王朝が成立したころ、日本は縄文時代後期だった。南西諸島や九州に住んでいた人々も「縄文人」と呼ばれている。縄文人というと日本の先史時代の人々で、縄文土器がイメージされるが、すべての縄文人が文化的に均一だったかというと、そうではない。
     縄文文化は、明らかに東と西では大きな違いが見られる。特に縄文創成期、早期に南九州で栄えた縄文文化は、後の縄文文化とは大きく異なっている。
     また、縄文土器と呼ばれるものも、広義には、縄文以外に貝殻を使った貝殻文やヘラや串などを使用した沈線文、無文などさまざまな種類が存在する。そして南九州の古い縄文土器には、貝殻文も多く見られる。
     特に、鹿児島県上野原遺跡から出土した土器は主に貝殻文で、土器の底部は平底で、四角い形状の土器も存在し、東日本の縄文土器とはまったく異なる独自性を持っている。これらの土器は時代的に、およそ1万年前まで遡れる最古級の土器群である。

    鹿児島県の上野原遺跡から出土した土器。主に貝殻文で形状は四角く、東日本の縄文土器とはまったく異なっている。

     そして、縄文を施した同じような土器が、東中国海を挟んだ中国側でも見つかっている。例を挙げると、江西省万年県の仙人洞窟からは、粗い縄文を施した丸底の土器が見つかっている。ほかにも、中国南部では縄文丸底土器が多く見つかっているが、年代的には非常に古いものである。
     仙人洞窟からは、2万年近く前のものと思われる、現在のところ最古の土器片も発見されている。その表面には、円孔の文様が施されているが、その文様は、宮崎県の跡江(あとえ)貝塚で見つかっている土器とそっくりなのである。

    仙人洞窟から見つかった、中国最古とされる土器の破片。表面には、円孔の文様が施されている。

     ここからわかるのは、東中国海を挟んで大陸側と日本側には、最古級の土器を作成した同じ文化に属する人々が住んでいたということだ。
     そもそも仙人洞窟で見つかった最古の土器が作られた2万年前は、最終氷期の真っただなかである。
     そのころ海面はいまよりもずっと低く、東中国海の大半は陸地だった。おそらく最初の土器を製作した人々は、この沈んだ陸地に住んでいたのだろう。すでにこの時期には、西日本は大陸から分断されていたようだが、東中国海に存在した陸地とは目と鼻の先だ。
     この地域一帯に、同一文化をもつ人人が住んでいたのである。
     つまり、夏や殷王朝を建てた東夷とは、西日本の縄文人と同じ文化をもつ人々で、東中国海に沈んだ陸塊に住んでいた「原縄文人」とでも呼ぶべき人々を共通祖先としていたわけだ。

    血液のタイプが語る両国に共通するルーツ

     殷でも日本でも卜占が行われていたことはずでに述べたが、詳細に見ると占いの方法には違いがある。殷では、あらかじめ占うことがらを亀の甲羅や動物の肩甲骨などに文字で刻み、ひびの入り方で、吉凶を占った。
     しかし日本では文字は刻まず、ひびの入り方に特定の意味を見出し、占う。つまり日本のほうがより原始的なわけで、これは卜占が中国から伝わったものではないことを示している。

    宮崎県の跡江(あとえ)貝塚で見つかった土器の破片。その文様は、仙人洞窟出土のものときわめてよく似ている。
    殷の甲骨文字。一般にこれが漢字の始まりとされている。(写真=Editor at Large-Own work . C CBY-SA2_5)。

     おそらく卜占も、東中国海の原縄文人が発明し、使っていたものだろう。殷ではそれを進化させ、亀卜が行われていたのだ。もしかすると亀卜に使われた甲骨文字も、殷以前の原縄文人が、すでに発明していたのかもしれない。このことはきわめて重要な意味をもつ。
    「漢字」とはいうものの、元となった甲骨文字を発明したのは、漢民族ではなかったということになるからだ。
     漢民族と原縄文人がまったく異なる民族であることは、DNAからもうかがい知れる。漢民族のY染色体のハプログループは、O2の系統が圧倒的である。
     一方、日本人を含む一部の人々には、YAPと呼ばれる特殊な変異を含むD1系統のハプログループが存在する。日本人以外では、大陸側のチベット族、ヤオ族、島嶼地域でアンダマン諸島民、マクタン島民、グアム島民である。
     D1系統のグループは、最終氷期に東中国海を中心に広がっていた大きなグループだったのだろう。だが氷期が終了し海面が上昇するにつれ、日本やその他の島嶼部の一部と中国側の一部に分かれてしまったと考えられる。
     だが海進は、比較的ゆっくりしていたため、彼らは航海術を発展させ、東中国海を挟み、活発な交流を行っていた。殷王朝が成立した後も、日本との文化交流は盛んだったのだろう。日本に殷王朝と共通した風習が多く見られるのは、このためである。
     漢民族が西日本の民族を「倭人(わじん)」と呼んでいたことは、読者もご存じだろう。だが古い時代では、漠然と東中国海周辺の共通の文化圏の人々を、倭人と呼んでいたようだ。
     このことを裏づける文献資料として『契丹古伝(きったんこでん)』という、日露戦争時に発見された古伝の写本が存在する。この文献には「殷は倭なり」という記述とともに、東アジアの広い地域に、共通の言語を有する人々がいたことが記されている。
     残念ながらこの文献は、主流の歴史学者からは、偽書と見なされ無視されている。しかし、この文献を偽書とする証拠がないのも事実である。現実に即したことが書かれているのだから、偽書と決めつけるのは横暴だろう。

     余談になるが、筆者には中国人の知人が多数いる。中国人の発する日本語の発音は独特だが、そのなかの数人は、日本語の発音が異常にうまい。いずれも上海の出身者だった。
     上海出身者によると、上海語の発音は標準の中国語より、むしろ日本語に近いという。したがって上海出身者にとって日本語の発音は簡単で、日本語にはすぐなじむという。日本語と上海語の根底には、原縄文人の言葉が反映されているのかもしれない。

    最終氷期の真っただなかの東アジア。海面はいまよりも低く、東中国海の大半は陸地だった。最初の土器を製作した人々は、この沈んだ陸地に住んでいたのだ(写真=Google.Inc)。

    日本が受け継いでいた殷王朝のレガシー

     殷王朝が滅んだのは、紀元前1046年ごろである。そのころ日本では何が起こったのか。
     そう、弥生時代が始まったのだ。
     もしかすると漢民族という異民族に追われた殷の人々は、大挙して西日本に逃れてきたのではないだろうか。西日本の縄文人と共通の祖先を持ち、文化的に同一だった殷の人人にとって、日本は最適の避難場所だったに違いないのだ。

    「魏志倭人伝」に書かれた倭人と邪馬台国の記述を見ると、弥生時代の日本が殷の影響を強く受けていたことがわかる。「魏志倭人伝」には、倭国では、女性が政治に参加したと書かれている。いうまでもなく、邪馬台国連合を支配したのは女王・卑弥呼である。そして意外かもしれないが、殷でも女性の巫女たちは強い権力を持っており、祭祀を通じて政治に参加していた。
     さらに「魏志倭人伝」に「倭の水人」という言葉が見られるように、倭人は海洋民族で、サメ除けの「文身(ぶんしん)」――入れ墨(刺青)――をしていた。刺青もまた、東シナ海沿岸の中国の少数民族に広く見られる風習である。

    「魏志倭人伝」。「文身(ぶんしん)」「倭水人」という記述が確認できる。これは東アジアの海洋民族によく見られる風習である。

     殷王と同様、卑弥呼はシャーマンで、祭祀を通して政を行っていた。もちろん卜占も行われていた。さらに重要なのは、倭国の産物として、絹があったと書かれていることだ。
     絹の生産も中国が起源とされているが、その製法は門外不出で、最高の機密事項として扱われていた。ヨーロッパに絹の製法が伝わったのは、6世紀のことである。ところが弥生時代の日本では、すでに絹が作られていたのだ。

    発掘された殷時代の王墓。周囲には生贄(いけにえ)として捧げられた人骨が見られる。

     奈良時代の奄美大島でも絹が生産されていたことが、『東大寺献物帳』からわかっている。奄美大島が遣唐使船の中継地になっていたことから製法が伝わったのではないかとされているが、遣唐使が最高機密である絹の製法を伝えたとは考えにくい。
     そう、絹の生産も、最終氷期に東中国海にあった陸地の原縄文人が発明し、それが日本と中国にもたらされたと考えるほうが自然である。

     ところで殷の恐ろしい風習に、生贄と殉葬というものがあった。殷では、動物とともに征服した民族なども祭祀の際に生贄として捧げられていた。殉葬とは、高貴な人物が亡くなったときに、家臣や奴隷、妃などが、一緒に殺され埋葬されることで、殷では広く行われていた。
     日本においては、大規模な人間の生贄の風習は知られていないが、人身御供という形で、行われることもあった。また殉葬に関しても『魏志倭人伝』に卑弥呼の死に際し、「奴婢(ぬひ)百余人を殉葬した」とある。このように、弥生時代の文化は、殷の影響を強く受けていたと考えられる。

    王墓で発見された、殉葬にされた人骨。この風習は、邪馬台国でも見ることができた。

     後の日本で、漢字を含む中国文化が、広く受け入れられたのは、もともと共通の文化が源流となっていたからだろう。
     だが中国本土では、古い中国文化は次々と捨て去られ、いまでは漢字すら、簡体文字として簡素化されてしまった。もはや古き時代の中国の面影を残しているのは、日本だけなのかもしれない。

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