超古代スンダランド文明の遺産か!? UFO建築が並ぶ幻の遺跡がスマトラの奥地にあった!/遠野そら
突然、世に現れた複数の奇妙な写真。それはある探検家がジャングルで撮影し、命と引き換えに残したものだという。だが──。そこに写っていたのは、まるで異世界のような光景だった!
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毎回、「ムー」的な視点から、世界中にあふれる不可思議な事象や謎めいた事件を振り返っていくムーペディア。 今回は、かつて太平洋に巨大な「ムー大陸」が存在していたと主張したイギリスの考古学研究家について取りあげる。
今から1万2000年前、太平洋にはムー大陸と呼ばれる陸塊が存在していた。
その大地は東西8000キロ、南北5000キロの領域に広がり、東は現在のハワイ諸島から西はマリアナ諸島、南はポナペ、フィジー、トンガ、クックの諸島を結ぶ線におよび、東南の端に現在のイースター島があった。
ここでは5万年も前から、現代のそれに劣らぬほど高度な文明が栄え、太陽神の地上代理人である帝王ラ・ムーの統治下、肌や目の色、髪の色が異なる10の種族が暮らし、最盛期には6400万人の人口を擁していた。ムー帝国の国民は特に建築と航海に優れ、世界の海を制覇して世界各地に植民地を築き、その文明を伝えた。しかしあるとき、陸地の下の巨大な空洞であるガス・チェンバーに充満していたガスが爆発し、ムー大陸は崩壊、海底にその姿を消した——。
このようなムー大陸の概念を広めたのは、元イギリス陸軍大佐を自称する考古学研究家ジェームズ・チャーチワード(1851〜1936)である。
チャーチワードが1926年に発表した『失われたムー大陸』によれば、1868年、彼は飢饉に襲われたインドに救護隊の隊長として派遣されていた。
救援活動に携わっていたチャーチワードは、そこで古いヒンドゥー教寺院の高僧と親しくなった。彼は、時間があるときにはこの高僧からインドの古代文字の読み方を教わっていたのだが、あるときこの高僧が、その寺院に古くから伝わる門外不出の粘土板のことをぽろりと口に出した。
興味を抱いたチャーチワードは、その粘土板を見せてくれるよう頼んだ。最初は渋っていた高僧であるが、最後は根負けしてこの「ナーカル碑文」と呼ばれる粘土板を見せた。
高僧にもこの碑文は解読できなかったが、ふたりは協力して解読に励み、2年間かけてついに解読に成功。それがかつて太平洋に存在したムー大陸の『聖なる霊感の書』の復刻であることを発見したのだ。そこには地球ができたときの模様や人類の出現、人類が最初に現れた土地であるムー大陸について詳しく記されていたという。
以後、チャーチワードは世界各地を回ってそれぞれの古代文化や伝説を研究し、ナーカル碑文との照合を通じて明らかになったムー大陸の全容を、『失われたムー大陸』として出版したのである。
本書は世界的なベストセラーとなり、その後チャーチワードは『ムー大陸の子孫たち』など4冊の続編を発表している。
ただ、こうした書物でチャーチワードが述べる経歴は、資料から確認できる彼の人生とはかなり異なることも事実だ。
出生記録によれば、チャーチワードは1851年、イギリスのデヴォン州オークハンプトン郊外にあるブリッジストウ行政教区で、父ヘンリーと母マティルダの間に、7番目の子として生まれた。行政教区とは聞きなれない言葉だが、イギリスの一部で教会の教区が行政区画として機能しているものをいう。しかし1854年11月、父ヘンリーが死亡したため、一家は母親の両親が住むオークハンプトン近くの小さな集落に移り住むことになった。その後、母方の祖父ジョージ・グールドが死亡し、チャーチワードが18歳のころには、一家はケンブリッジに住んでいた。
1871年、ロンドンでメアリ・ジュリア・スティーヴンスと結婚した後、チャーチワードはスリランカに移住して茶農園の経営を始める。さらにチャーチワード夫妻は、1880年代末ごろにはアメリカに移住したらしい。
アメリカでは夫妻はニューヨークに住み、技師として働きながら、鉄道用の釘や線路の継ぎ目を覆う板、合金鋼に関するいくつもの特許を取得している。その傍ら、1890年代には釣りに関する著書を2冊出版している。
このように彼の生涯をたどってみると、1868年ごろにチャーチワードが軍人としてインドに赴任していたという事実は確認できない。そもそも1868年には、チャーチワードはまだ17歳の少年であり、士官学校を卒業した年令でもないから、救護隊の隊長に任命されたという主張も疑問だ。
何よりも、チャーチワードがイギリス陸軍に所属していたことを確認できる資料はいっさいないのである。当然、インドでナーカル碑文を解読してムー大陸の存在を知ったという話も疑わしくなる。
では、彼はどこで、どのようにしてムー大陸の存在を知ったのだろう。
じつは、今は失われてしまった「ムー」という国の存在を最初に指摘したのは、チャーチワードではなく、フランス出身のカトリック司祭にして歴史家、考古学者で、マヤ文明に関する多くの著作を残したシャルル=エティエンヌ・ブラッスール・ド・ブールブール(1814〜1874)であった。
ブラッスール・ド・ブールブールはフランスのダンケルク近くの村に生まれ、ベルギーで神学や哲学を学んだ後、最終的にカトリックの司祭となり、1848年から1863年まで宣教師としてメキシコや中央アメリカの多くの場所を訪れた。
そこから古代中南米の文化に関心を抱き、研究を開始、スペインの首都マドリードに保管されていたディエゴ・デ・ランダ(1524〜1579)の『ユカタン事物記』や、後に『トロアノ絵文書』と呼ばれるようになるマヤの書物などを発見した。『ユカタン事物記』を残したディエゴ・デ・ランダという人物は、1560年からカトリックの修道会・フランシスコ会のユカタン教区長として現地での宣教に努めた人物だ。
彼はその過程で、目についたマヤの書物はすべて迷信として焼き捨てた。しかしその後、考えを改めたらしく、マヤの社会・生活・文化・信仰などに関する記録をまとめたのが『ユカタン事物記』である。
そしてこの文書には、マヤ文字とスペイン語のアルファベットを対比させた表があった。そこでブラッスール・ド・ブールブールがこの表を使用して『トロアノ絵文書』を解読したところ、海に沈んだ「ムー」という国の存在を発見したのだ。
このブラッスール・ド・ブールブールの考えを引き継ぎ、発展させたのが、フランスの写真家にしてアマチュア考古学者でもあったアウグストゥス(オーガスタス)・ル・プロンジョン(1826〜1908)である。彼はフランスのジャージー島に生まれ、パリの理工系エリート養成機関エコール・ポリティークを卒業後、サンフランシスコで測量士となると、働きながら医学を学んで医師の資格を得た。さらにイギリスで写真を学ぶと、1862年にペルーで写真店を開業し、その後各地を移動しながらマヤ遺跡の写真を数多く撮影した。
マヤ文明に魅せられたル・プロンジョンは、マヤ文明こそが古代エジプトやヨーロッパなど世界中の文明の母であり、マヤの文明は古代に存在したアトランティスを通じて古代エジプトに伝わったと考えた。そして、『トロアノ絵文書』に記されたムーこそ、プラトンが書き残したアトランティスだと考えたのである。
そのル・プロンジョンが晩年住んでいたのがニューヨークであり、チャーチワードもそのころニューヨークにいたのだった。
チャーチワードとル・プロンジョンは、チャーチワードの友人の親族の家で出会い、マヤ文明について熱心に話し合ったという。どうやらチャーチワードがムー大陸について初めて知ったのはこのときらしい。
実際、『失われたムー大陸』でも、『トロアノ絵文書』『コルテシアノ絵文書』『ポポル・ヴフ』といった古代マヤの文書解釈は、ル・プロンジョンに依拠する部分が大きい。
ただル・プロンジョンは、ムー大陸とはアトランティスのマヤでの呼び名であり、大西洋に存在したと考えていたが、チャーチワードはそれが太平洋にあったとした。
さらにチャーチワードはマヤの古文書以外にも、ナーカル碑文や、鉱物学者のウィリアム・ニーヴン(1850〜1937)がメキシコで発掘した古代都市や石板、さらにはイースター島をはじめとする太平洋地域の古代遺跡や住民の習俗など、多くの追加資料をムー大陸実在の根拠として取り入れている。
チャーチワードが、太平洋の失われた大陸としてのムー大陸を本格的に構想しはじめたのは、1914年、チャーチワードがコネチカット州レイクヴィルにあるウォノスコポマク湖という小さな湖のほとりに移住した後のことではないかと推定される。
ムー大陸に関する論考を新聞に発表したり、ラジオで話したりしはじめたのは1924年からで、このころから元イギリス陸軍大佐の肩書きを用いている。
では、ムー大陸は実際に存在したのだろうか。
残念ながら、現代の地球物理学の観点からすると、太平洋にチャーチワードが主張するような巨大な陸塊が存在したとは考えられない。チャーチワードがムー大陸沈没の原因として指摘するガス・チェンバーの存在も地質学的に確認されていないし、海洋地殻と大陸地殻は形成過程が異なり、大陸が一夜にして海底に変じることはありえない。
さらに、チャーチワードがムー大陸実在の証拠とするナーカル碑文については、第三者による確認はされておらず、ル・プロンジョンらのマヤ古文書の解釈についても、現在は疑問が呈されている。
ただ、これらはあくまでも現代の科学的見地から見た話であり、プレートテクトニクスの理論などなかった時代、チャーチワードは本気でムー大陸の存在を信じていたのかもしれない。
ともあれ日本では、今でもムー大陸の人気は高いようだ。大陸としてのムー帝国というものは存在しなかったとしても、太平洋の島嶼を結ぶムー文明のようなものが存在したとか、琉球古陸がムー大陸であったという説も唱えられているし、一部には日本人のルーツをムー大陸に求める者もいる。
考えてみれば、本誌のタイトルもムー大陸にちなんだものである。海に沈んだ謎の大陸という存在は、いつの時代も人々のロマンをかき立てるものなのかもしれない。
●参考資料=『失われたムー大陸』(ジェームズ・チャーチワード著/大陸書房)、『謎解き古代文明』(ASIOS/彩図社)
羽仁 礼
ノンフィクション作家。中東、魔術、占星術などを中心に幅広く執筆。
ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)創設会員、一般社団法人 超常現象情報研究センター主任研究員。
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