知られざる『三河南朝』の謎/MUTube&特集紹介  2023年8月号

文=古銀剛 イラストレーション=坂之王道

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    奇書「青木文書」が語るもうひとつの天皇秘史。三上編集長がMUTubeで解説。

    歴史の常識を覆す「三河南朝説」

     建武けんむ3年(1336)、建武の新政を後醍醐ごだいご天皇に反旗を翻した足利尊氏あしかがたかうじは、京都を制圧すると、後醍醐天皇に対立する持明院統じみょういんとう光明こうみょう天皇を擁立した。他方、京を遂われた後醍醐天皇は三種の神器を携行して奈良県南部の吉野へ逃れ、独自に朝廷を開いた。
     これが、天皇家が北朝(京都)と南朝(吉野)に分裂した南北朝時代のはじまりである。前代未聞の内乱状態は、およそ半世紀後の1392年(北朝の年号で明徳めいとく3年、南朝の年号で元中げんちゅう9年)に、足利義満よしみつの仲裁によって南朝の後亀山ごかめやま天皇(後醍醐天皇の孫)が京に還御かんぎょし、三種の神器を北朝に譲渡して南北朝が合一するまで続いた(合一とはいっても、事実上は北朝による南朝の吸収であった)。
     この歴史は、現代においては教科書にも明記されていることで、一般常識に類するものといってよいだろう。
     ところが、この“常識”とはまったく相違する、こんな説があることをご存じだろうか。
    「後醍醐天皇が吉野に樹立した南朝は、その後、密かに三河国みかわのくに(愛知県東部)に遷された。しかも1392年の“南北朝統一”は表向きのもので、じつはその後も南朝は隠密に存続していた」
     すなわち、ある時期、「三河南朝」が存在し、いわゆる「南北朝時代」の終了後も三河南朝系の天皇が隠れるようにして皇位をいでいたというのである。本記事では、これを仮に「三河南朝説」と名づけたい。
     はたして三河南朝説は知られざる史実なのか、それともただの妄説にすぎないのか?

    昭和戦前に出現した謎の古文書

     三河南朝説は、ある古文書を根幹的な典拠としている。その古文書とは俗に『青木文書』と呼ばれるもので、三河地方のとある旧家に伝来していた。『青木文書あおきもんじょ』がはじめて一般に公開されたのは、昭和15年(1940)に刊行された家田富貴男いえだふきお著『長慶天皇御聖蹟ちょうけいてんのうごせいせきと東三河の吉野朝臣よしのちょうしん』(以下、『長慶天皇聖蹟』と略記)という書物においてである。家田の詳しい経歴は不明だが、彼は、愛知県宝飯郡御油町ほいぐんごゆちょう(現・豊川市御油町)を所在地とする同書の発行元「三河吉野朝聖蹟研究所」のメンバーだった。後ほど改めて触れることになるが、豊川市御油町は三河南朝の“都”ともいえるエリアである。
     この『青木文書』の原本は、前掲『長慶天皇聖蹟』の刊行当時、御油町の旧家・中西家に秘蔵されていたという。
     文書の内容を解説する前に、まずは基本的な書誌情報について触れておこう。
    『青木文書』そのものの説明によると、この文書は後醍醐天皇の忠臣・千種忠顕ちぐさただあきの孫にあたる青木平馬へいま応永おうえい30年(1423)に書き記したものだという。南北朝の争乱がはじまったとき、千種忠顕は後醍醐天皇に従ったが、比叡山ひえいざん山麓で戦死してしまった。だが彼の一子・青木盛勝が三河国玉川村和田(現・愛知県豊橋市石巻町いしまきちょう和田地区)にまで落ち延び、同地に住み着いた。その後この一族は、吉野から三河へと遷ってきた南朝に仕えたらしく、盛勝の子・平馬がその記録として残したのが『青木文書』であった。
     ちなみに、『青木文書』を所蔵していた中西家とは、青木家の傍系縁者だという。

    南朝天皇史の通説と長慶天皇の謎

    『青木文書』の内容解説に移る前に、南北朝時代の南朝天皇史の“通説”を概説しておく必要があるだろう。
     以下通説によると、南朝を樹立した後醍醐天皇は延元えんげん4年(1339)8月に52歳で吉野で崩御ほうぎょした。この直前、後醍醐の第7皇子・義良親王のりよししんのうが譲位を受けて即位していた。これが後村上ごむらかみ天皇で、29年間在位して正平しょうへい23年(1368)3月に41歳で崩御し、檜尾陵ひのおりょう(大阪府河内長野かわちなかの市寺元)に葬られた。この天皇は吉野で即位するも、足利方の襲撃を受けて紀伊や河内など、諸所を転々として安住の地を得なかった。
     後村上天皇の崩御を受けて践祚せんそしたとされるのが、後村上天皇の第1皇子・寛成ゆたなり親王、すなわち長慶天皇だ。
     このころには南朝が著しく衰退していたため、長慶天皇の事蹟には不明の点が多いが、摂津、吉野、河内など、諸所を転々としたとされている。そもそも即位しなかったのではないか、という説も古くからみられ、じつは即位が正式に認められて長慶天皇が皇統に加えられたのは、大正15年(1926)のことである。
     長慶天皇は弘和こうわ3年(1383)ごろに弟の後亀山天皇(後村上天皇の第2皇子)に譲位して出家し、応永元年(1394)に52歳で崩御したと伝えられているが、確たる証拠はない。御陵は京都の嵯峨東陵さがのひがしりょう(京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町てんりゅうじすみのくらちょう)となっているものの、これもあやしい。乏しい史料をもとにこの御陵が長慶天皇陵に決定されたのは、死後500年以上も経過した昭和19年(1944)のことだからだ。
     そして後亀山天皇が元中9年(1392)に京都に入って南北朝が統一されたのは、先に記した通りだ。

    (文=古銀剛)

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