大分・塚原「九十九塚伝説」は史実だった!? 鬼と神が織りなす神話現場を空撮取材/猿田彦TV

文・写真=猿田彦TV

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    大分県由布市湯布院町塚原にまつわる伝説を40年ぶりに再検証! 現地調査で見えてきた古代九州の歴史、そして鬼と神様の正体とは――!?

     ⼤分県由布市湯布院町の塚原という集落には、⻤が造ったといわれる「九⼗九塚(つくもづか)」という奇妙な遺跡が点在している。

     今から40年以上前、月刊「ムー」(1980年5月号)に掲載された「⽇本で最も奇妙な遺跡 謎の塚原九⼗九塚の正体にせまる」という現地調査レポートに触れた筆者。それから長い時を経て、九⼗九塚は今どうなっているのか再調査することにした。

    月刊ムー 1980年5月号より。

    神と人間と鬼が織りなす伝説

     地元の伝承によると、はるか昔、塚原⼀帯には神様と⼈間と⻤とが⼀緒に⽣活していた。⼟地も肥沃で⾃然にも恵まれ、平和に楽しく⽣活を営んでいたが、年⽉が経過すると⻤が乱暴をはたらくようになる。⼈々が作った農作物や、⼤切に育てている家畜を奪うばかりか、⼈間を捕まえて⾷べるという蛮⾏にまで及ぶようになったのだ。

     ⾒かねた神様たちは、「いかにして⻤たちをこの⾥から追い出すか」という緊急討議を行った。そして、次のような条件を鬼に提示する。

    「もしも⼀夜のうちに100 個の塚を作ることができれば、この⼟地の⼈間全員を⽀配してもよい。しかし、できなかった場合は速やかにこの⾥を去ってもらう」

     ⻤たちは⾃信満々で神様の提案を承諾、⽇没とともに塚を造り始めた。⻤の⼀族が集結し、⼒の限りをふりしぼって造っていくものだから、塚はどんどん完成した。

     その様子を⾒ていた神様たちは驚き、新たな対策を立てた。それが、夜明けを早めてしまうという作戦だった。神様自身が朝鶏の真似をすることで、⻤に朝がきたと勘違いさせ、自ら負けを認めさせようと考えたのだ。

     すぐに神様が丸いすげ笠(バッチョロ笠)をもって由布岳の頂上に駆け登り、周囲を⾒下ろすと、すでに99の塚が完成し、あと1つで完成という状態だった。しかも⻤たちは、まだ朝までは時間があると安⼼しきって、ゆっくり最後の仕事にかかっている。

     焦った神様は、すげ笠をパタパタと叩いて鶏が羽ばたく⾳を出し、「コケコッコー!」と鳴き真似をした。すると、村⼈に飼われている鶏たちも朝が来たと早とちりして次々に鳴き始めた。

     びっくりしたのは⻤たち。夜明けまでは、まだまだ時間があると思っていたのに、いきなり夜明けがやってきたのだから……。そこで⻤たちは潔く敗北を認めて村から出て行き、以後この村では神様と⼈間が仲よく暮らしたという。

     そして今でも、鳴鶏塚、⻤の沓(くつ)、⻤の膳など、塚原には伝説にちなんだ名前がついた場所が数多く残されているのだ。

    伝説の塚が至る所に! 現地調査で次々発見

     さて、現地に⼊ると、さっそく過去のムーの記事を頼りに鬼が造ったという塚の痕跡を探した。しかし、なかなかそれらしき場所は⾒つからない。

     そこで通りすがりの地元住⺠に聞いてみると、なんと⽬の前にある雑⽊林のような塊が九⼗九塚の一つだという。この近辺で、開けた田畑の中に点在している雑木林は、その全てが塚だったのだ。

     試しに目の前にある雑木林に⼊ってみると、樹木が生い茂ってわかりづらいが、奥の方に塚の土が露出したような部分を発⾒できた。

     今度は直径6mくらいの小さな塚に近づいてみると、その⼟台が⾓礫岩で⽯組みしてあることが確認できた。周辺を⾒渡すと、畑の枠まで綺麗な⽯組みになっているではないか。

    神社で知った伝説の背景

     やはり伝説は実話だったのか。さらなる情報を求めて近隣にある霧島神社へと足を運んだ。そこで神社の由緒を読んでみると、次のような重要な記録が残されていた。

    ⼈皇13代成務天皇(4 世紀中期350頃景⾏天皇の第4 ⼦)⾟未の歳、諸国境界査定の為め庭⾂を四道に遣ふ。

    豊後には、⼤納⾔秀⾏、副⾂⽊葉盛豊、北⾯の⼠には、松浦左近、⼀ノ宮主計、縣⺠部縣千代太夫等の従⼠を従へ、派遣せらる。其歳の冬巡視此地に来たる。

    岩⻲⼭の峰頭より瞰下に濃霧四⽅に塞り分明ならず。麓に野営せり。翌⽇⽇の上るを待ちて、再び眼を放てば⽩き霧の中幾多の⼩塚現れ、海原の嶋に同じ。

    秀⾏公の⾔はく、此の地原野廣漠、⼈の住居に適す。現状より名付けて塚原と称すべし。既に⼈家あり宜しく神社を祀るべし。実況より霧島神社と名くべしとて、⾦幣⼀對を縣千代太夫に渡し伊弉諾尊、伊弉册尊に神を崇め永く留り⼟地を開かしむ。

    千代太夫は、岩⻲⼭の麓、地平かに、⽔清き蓮池の傍に社地を定む。

    其後、鶴岡主計之助、⼀宮左⾺之丞⼀族⼗余⼈を率ひて来住し盛んに開墾を為し、⼀時150余⼾の部落をなしたり。

    創始は今を去る凡そ1870前なり。或は⾔ふ、此創始より以前既に部落ありたりと。

    字、下ノ宮に元、貴船神社ありて、俗に之を元宮と称する。

    (境内由緒書より)

     ここから解釈すると、ずばり塚原の先住⺠こそが「⻤」と呼ばれ、土地を追いやられたという構図が浮かんでくるのだ。伝承に登場する「九十九塚」や「神」の真相も含めて詳しく考えてみたい。

     まずは、⻤である先住民が造った「九⼗九塚」だが、近くでよく観察してみると、一つ一つの塚が前述のようにしっかりした石組みの上に造形されている。

     今でこそ同地には広大な畑が広がっているが、本来は土中に⾓礫が多く含まれ、開拓するにはそれらの⽯を大量に運び出す必要があったのだろう。そこで⾼度な整地技術をもつ先住民たちは、土から取り除いた角礫をところどころに集めておいた。それがやがて塚になったのではないか!?

     そもそも、⼤分県には各地に⻤の伝承が残されている。たとえば観光地の熊野磨崖仏には、鬼が造ったとされる荒々しい階段がある。その昔、「⽯段を⼀夜で100段積み上げることができれば、今までの悪さを許してやろう」と言われた鬼がいとも簡単に⽯を積み重ねていく様子に驚いた熊野権現は、鶏に変身して「コケコッコー」と鳴いた。すると⻤は慌てて逃げ出し、杵築市⼭⾹の⽴⽯で⼒尽きたと⾔われている。まさに、塚原の九⼗九塚と同じ⼿法で⻤を追いやっているのだ。

     では、人間たちを助けて鬼(先住民)を追い出した「神」とは、いったい誰のことか? やはりそれは天皇としか考えられない。

     実際、12代景⾏天皇は、現在の南九州に居住していたとされる種族「熊襲(くまそ)」を自ら討伐しに向かっている。また、現在の大分県一帯には天皇に従わない⼟蜘蛛(つちぐも)がいて、討伐に向かった際には先住⺠が多く殺されたという記録が古代神話集「上記(うえつふみ)」にも残されているのだ。

    幾層にも重なった文化のレイヤー

     さて、筆者が今回足を運んだ塚原の霧島神社だが、その裏⼿に回ると⾒事な磐座(いわくら)があった。しめ縄が巻かれ、異様な存在感を放っている。もしかしたら、この地で「⻤」と呼ばれた先住民たちの信仰の対象が、この磐座だったのかもしれない。

     磐座の脇の急な斜⾯に、かすかに⼈が通れる痕跡があったことから、それを頼りに登ってみた。磐座は必ず上に登れる構造になっているというのが筆者の持論なのだが、やはり、上部にはちょうど⼀⼈が乗れる程度のスペースがあった。

     霧島神社の磐座の上部には巨⽊が⽣えており、その姿はとても神々しく、かつ⼒強く、根から捻れながら幹が4本に別れている。さらに磐座の後⽅には、やはり岩で組まれた祭祀場の痕跡が⾒られるのだ。

     ⽇本の⽂化とは幾層ものレイヤーが重なって形作られたものであり、それは神とて例外ではない。要するに、もともと先住民(鬼)が崇めていた巨石が、次にこの地を治めた者たちの信仰の対象(磐座)にもなり、やがて霧島神社が建てられたように思えるのだ。

    鬼と友好関係を築いた地域も!?

     しかし、ここで筆者にはもう一つ腑に落ちない点があった。同じ大分県でも、国東半島の伝承だけは鬼の扱いが別格なのだ。他の地域の鬼はことごとく悪さをして迫害されるが、国東は「⻤が仏になった⾥」と呼ばれ、⻤と⼈とが交流する祭りまで受け継がれている。これはどういうことか?

     考えるヒントは、国東の寺院にある。同地の寺には、⻤がいるのだ。⼀般に恐ろしい存在の象徴とされる⻤だが、国東で⻤は⼈々に幸せを届けてくれる存在になっている。そして鬼は不思議な法⼒を持つとされ、それに憧れる僧侶達によって「仏(不動明王)」の姿と重ねられてきた。

     古代の僧侶達は、法力をもつ⻤の姿を探して国東の岩峰をよじ登り、⻤の棲む洞⽳を削って「岩屋」と呼ばれる修⾏場を作り出し、それを巡る「峯⼊り」を創始した。堂や社がなくても、霊窟で⾃然に⼿を合わせる――そんな仏教⽂化が国東では受け継がれた。岩屋の多くは「奥ノ院」とも呼ばれ、今でも各寺院の信仰のはじまりと位置づけられている。やがて国東の6つの郷には、最⼤65カ所の寺院が開かれ、「六郷満⼭」と呼ばれる仏の世界が創られた。そして、これらの寺で僧侶が扮する⻤は国家安泰から⾬乞いまで様々な願いを叶えてきた。こうして、国東では⻤に祈る⽂化が花開いたのだ。

     実際、現地の寺院や岩屋を巡れば、様々な表情の⻤⾯や優しい不動明王と出会え、国東に受け継がれている「⻤に祈る⽂化」を体感できる。鬼と共に笑い、踊り、酒を酌み交わす国東。今もその深い友情の立役者となっているのが僧侶達なのだ。

     このように、⼤分県の伝承とその背景には、古代の日本史が凝縮しているということだけはおわかりいただけるだろう。筆者の関心としては、ここからさらにもう一歩踏み込んで、「鬼」とされた先住民と「人間」との違いは何か、大和民族の本当のルーツについて、そして土地を追われた「鬼」たちはどこに行ってしまったのか――と考察を進めたいところだが、それはまた別の機会に譲るとしよう。

    猿田彦TV

    縄文、カタカムナ、磐座、ストーンサークル、地底国など日本に点在する超古代文明の痕跡を巡り、古代の叡智の解明に挑む。言霊研究家。

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