『聖書の暗号「666」大預言』ムー2024年6月号のカバーアート/zalartworks
「ムー」2024年6月号カバーアート解説
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1955年、日本初のUFO研究会が産声を上げる。結成70年を記念して、ミステリー史に刻まれたその足跡を検証する。(後編)
設立に至る前編はこちら https://web-mu.jp/column/64870/
「日本空飛ぶ円盤研究会」の主な活動としては、まず機関誌「宇宙機」の発行がある。
第1号はB4番一枚紙の裏表2ページしかなかったが、第2号は表紙を除いて14ページの冊子形式になった。最終の第32号まで、一部タイプ印刷のものもあるが、ほとんどは手書きのガリ版刷りだ。しかもページ数は回を追うごとに増えていき、第26号ではなんと61ページに達している。筆耕(文字を手書きすること)だけでも大変な作業になるが、これだけのものを、ほぼ1か月半に1冊のペースで出しつづけた関係者の熱意にはただ頭の下がる思いである。

他にも、研究会としてさまざまな活動を行っている。
UFO事件に関する資料を揃えておく必要を感じていた荒井会長は、会員の柴野拓美を伴って朝日新聞社を訪ねた。UFOに関連する過去の新聞記事の閲覧を求めると、快く資料室に案内してもらったという。しかも朝日新聞社では「空飛ぶ円盤」という分類項目を設けており、1947年以降の関連記事がまとめられていたのだ。
とはいえ、まだコピー機などない時代である。荒井と柴野は手分けして、大量の記事を手書きで筆写した。その成果は、「宇宙機」第4号から6号に「日本の新聞に現れた空飛ぶ円盤関係」として発表されている。
記事のなかには、今から見てもかなり興味深いものもある。
たとえば1951年2月の時点で、UFOの正体を大型気球「スカイフック」だと指摘する記事がいくつか見られる。また、1947年11月の外電には、スペインのフランコ総統にかくまわれているナチスの科学者がUFOを作成しているというものもある。ナチスとUFOとの関連は、このころから指摘されていたのだ。
研究会が本格的に活動を始めた1956年9月7日には、千葉県銚子市付近で奇妙な事件が起きた。
この日の午後7時半ごろ、謎の飛行物体が鹿島灘から銚子上空を飛行するのが30名以上に目撃され、その直後、銚子市周辺に大量の金属片が降ってきたのだ。金属片は長さ4~5センチ、幅1ミリ、厚さ10ミクロン程度と小さく、薄いものであった。
研究会会員で銚子市で歯科医を営んでいた滝田正俊は、この細片を荒井会長に送り、調査を依頼した。
荒井はまず金属片を、都内にある工業奨励館に持ちこんだ。すると金属片の主成分はアルミニウムで、鉄、銅、珪素の他、1~10パーセントの鉛が混入しているという結果が出た。 軽金属であるアルミニウムと、重金属である鉛が一緒に含まれていることを不思議に思った荒井は、アルミ箔などの製造業者日本軽金属株式会社や、大岡山の東京工業大学金属学教室などにも問い合わせたが、アルミニウムには0.2パーセント以上の鉛は混入できないとの返答を得た。
続いて顧問である糸川英夫に尋ねると、ロケットの発射実験等に使用する金属片と非常によく似ているという返事があった。ロケットの発射実験ではこうした金属片をロケットから巻いてレーダーでキャッチし、軌道を測定するのだ。
アメリカならこの種のアルミ箔を作っているのではないかといわれた荒井は、今度はアメリカ大使館を訪れ、大使館付の空軍武官に金属片を渡して調査を依頼した。しかしその後アメリカ大使館から連絡がなかったので、あらためて照会すると、それはアメリカ軍のものだったという一点張りで、それ以上何も述べようとしなかった。提供した金属片も戻ってこなかった。

世間に対する働きかけとして、「声明」なるものもいくつか発表している。
その最初のものが、1957年12月20日付で発出された「宇宙平和宣言」である。これは、UFOは異星人の乗り物という、いわゆる地球外起源説に立ち、他の天体からの生命体が地球を訪れている今こそ、人類は一致団結すべしと訴える内容で、「全日本空飛ぶ円盤研究連合」の名で発表されている。この全日本空飛ぶ円盤研究連合には、日本空飛ぶ円盤研究会に加え、空飛ぶ円盤研究グループ、日本UFOクラブ、近代宇宙旅行協会及び京大空飛ぶ円盤研究会の計5つの団体が名を連ねている。
1957年末、ソ連が月に核弾頭付のロケットを打ちこもうとしていると報道されたときも、荒井は黙っていられなかった。
「宇宙機」第17号(1957年12月/1958年1月号)冒頭には、「月ロケット発射に関する要望」という記事が掲載された。内容は、もし月に異星人の基地があり、そこで核兵器を爆発させたりすれば、彼らがどのような行動に出るかわからないという憂慮を表明したもので、在日ソ連大使館を通じて本国政府にも送られたようだ。
ユニークな活動としては、「日本空飛ぶ円盤研究会の歌」や、「俺は研究家」という歌の作詞というものもある。いずれも柴野拓美作で曲はつけられなかったが、なかなか格調高い内容である。しかし柴野本人にとっては黒歴史らしい。

日本空飛ぶ円盤研究会は、1960年4月1日発行の「宇宙機」第32号直後、突然活動を停止する。しかしこの号の28ページには次号予告があり、最終ページには、それまで4巻発行された『空飛ぶ円盤研究シリーズ』の発行予定のタイトルも並んでいた。休会はかなり突然決定されたようだ。
いったい何が起きたのだろう。
前述の「UFOと宇宙」のインタビューで荒井はこう述べている。
「一時は千人近くいた会員がだんだん減りましてね、財政は大赤字になるし、体力的にも精神的にも疲れ果てましてね……CBA問題以外にも、安井清隆さんのコンタクトの問題なんかもあって、どうもみんなハッキリしないことばかりではないか、という絶望感にもとらわれました」
また和田登著『いつもUFOのことを考えていた』には、こう書かれている。
「ぼくがくたびれだしたのは、貝塚の円盤写真事件のころからですね。世間の人たちは急激にUFO研究家に冷淡になっていきましたし、ぼく自身のからだも、虚血症と糖尿病でね、機関誌の原稿を書くにも、つかれを感じるようになりました」
荒井が言及している貝塚事件とは、どういうものか。
事件は、1958年10月31日に起きた。大阪府貝塚市に住む中学生が、自宅の窓の外に楕円形の飛行物体を撮影し、その写真が11月12日付「産経新聞」で報道されたのだ。現場には、写真を現像した写真店の店主も同席していたとの証言があったこともあって、これこそUFOが実在する動かぬ証拠と考えられた。
しかし翌年1959年、原版を調べた藤波重次京都大学教授が、写真はトリックであるとの記事を発表。これに対し日本空飛ぶ円盤研究会は「宇宙機」第28号(1959年7/8月号)に反論記事を掲載したのだが、結局撮影した中学生本人が、小さな物体を糸で吊るしたものだったと認めたのだった。
荒井自身も大いに落胆したであろうことは、想像に難くない。
そしてそこに「CBA事件」が起きた。
「CBA事件」は、「リンゴ送れシー事件」あるいは、「地軸が傾く事件」と呼ばれることもある。
1959年末、CBA(宇宙友好協会)内部で、1960年あるいは1962年に地軸が傾く大変動が起こるが、宇宙の兄弟が助けにきてくれるという内容の文書が出まわった。さらに文書には、災害が起きる10日前に「リンゴ送れシー」という電報が送られるから、受け取ったらすぐにUFOが着陸する場所に向かえ、と書いてあった。
このことが1960年1月19日付「産経新聞」に大きく掲載され、社会的にも注目を浴びる。同じ年の「週刊サンケイ」4月11日号や「日本」5月号にも続報が掲載された。
UFO関係者の間では、報道前からCBAの動きが知られていたようで、「なんでこんな非科学的なことをいきなりいいだしたのか? これでは自分たちまでも同じと見られ、ばかにされる」(『いつもUFOのことを考えていた』)と危機感を覚えたようだ。
さらに、同じころに起きた安井清隆のコンタクト事件も、荒井としては「ハッキリしない」ものだったらしい。
こうした事件が重なり、会員数は減少して財政状況も自らの体調も悪化するなか、6月1日に休会を宣言したのだ。
日本空飛ぶ円盤研究会の休会後は、互いに敵対するCBAと日本GAP、そして近代宇宙旅行協会が主要団体として残った。他に中小の研究団体もいくつもあったが、すべての研究家が立場を越えてひとつの研究会の下に参集する時代は、終わりを告げた。
休会を機に会社勤めを始め、UFOはこれっきりにしようとまで思い詰めていた荒井であったが、1965年ごろ、研究活動を再開する。それは、銀座通りで偶然、柴野拓美と出会ったことがきっかけだった。
当然ながら「どうしてるんだ」というような話になり、荒井は「もうUFOは止めようかと思っている」と口にした。すると柴野は、そんなことをいうなといって洋書店に連れていき、最近出た海外雑誌の記事を紹介した。休会中の5年間に、海外でいろいろな事件が起きていることを知った荒井に、また往年の熱意が甦ってきた。
まずは平田留三が設立した日本UFO研究会機関誌への執筆から始め、1972年には品川の公会堂で「空飛ぶ円盤25周年記念講演会」を実施、以後講演会や観測会などの活動を繰り返した。1977年には『1977UFO年鑑』を個人的に発行、そして1979年には、日本初の「UFOライブラリー」を自宅に開設した。1982年には、日本で最初の「UFO110番」というイベントも開催した。
こうした活動には日本空飛ぶ円盤研究会の名が使用されているが、実際には荒井の個人的活動という趣おもむきが強かった。しかし高梨純一や南山宏をはじめとするかつての仲間たち、さらには並木伸一郎など新世代の研究家たちが駆けつけて協力している。荒井はその後もUFO界の重鎮として活動し、2002年、UFO研究一筋の生涯を終えた。

(月刊ムー 2025年12月号より)
羽仁 礼
ノンフィクション作家。中東、魔術、占星術などを中心に幅広く執筆。
ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)創設会員、一般社団法人 超常現象情報研究センター主任研究員。