墓石を身に着けた奇妙な人、墓石を磨く祈り人……怪異として語られた人たち/妖怪補遺々々

文・絵=黒史郎

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    物騒な事件を頻繁に耳にする昨今、やはりヒトコワだと感じさせます。しかし事件を起こすような人は、物騒な事件を起こす人に限りません。奇妙で面白い行動をとる人たちもいます。そうした人の事件はやがて怪異・妖怪として語られてーー ホラー小説家にして屈指の妖怪研究家・黒史郎が、記録には残されながらも人々から“忘れ去られた妖怪”を発掘する、それが「妖怪補遺々々」だ!

    ヒトコワも怪談

     今は空前の怪談ブーム。書籍、イベント、動画配信など、怪談は様々なコンテンツのテーマとなり、目に耳に入らない日はありません。
    「怖い話」の種類も多岐にわたり、幽霊以外の話も増えてきました。そのひとつに「ヒトコワ」というジャンルがあり、これは「人が怖い」という話です。
     私たちと同じ「人」が、常軌を逸した言動によって恐怖を与えてくる——これは決して珍しい話ではなく、事件として毎日のように報道されています。世に、「怖い人」はたくさんいるのです。

     怖いだけでなく、「迷惑な人」もいます。突然、路の真ん中で激しく踊りだす人たち、飲食店で迷惑行為をする客やバイトテロといった動画がSNS上を毎日のように流れてきます。これらを公開した(公開されてしまった)ご本人方は楽しいのかもしれませんが、他から見れば理解しがたい異常な行動。理解できない私たちは、「なんでそんなことするんだろう?」「この行動になんの意味があるんだろう?」と純粋に疑問を抱いてしまいます。

     そういった奇妙な行動をとる人たちは今に限らず昔もおりましたが、その中には怪異のように語られた例もあります。

    怪人は妖怪か怪しい人か

     過去回でも紹介したことのある【にっしいぎりぎり】という、熊本県球磨郡の妖怪もそういった類に入る一例でしょう。

     数十年前のある日の夕方。某村に「僧形の大男」が現れ、家々の出入り口に立って「にっしいぎりぎり」と聞こえる呪文のようなものを唱えてまわり、忽然と姿を消してしまった——という事件がありました。
     その行動は托鉢僧のようですが、米を渡そうとしてもまったく受け取らず、ただ家々の前で無気味な何かを唱え、気がつくといなくなっていたのです。目的がわからず、村人たちはただ気味が悪く、外で遊んでいる子どもたちをすぐ家に入れ、青年団は棒を振り回しながら、この怪人物を朝まで捜しました。ところがまったく見つからず、怪人物の正体は不明のまま。この話は他の村にも伝わり、謎多き僧形の大男は【にっしいぎりぎり】という化け物として恐れられたそうです。

    【にっしいぎりぎり】は化け物などではなく、人だったのでしょう。施しを受けず、家々を回って唱える理由があったのです。ただ、なにか理由があっての行動も、その「なにか」がわからないままだと「怪しい人」になってしまう。本人にとって、どんなに意味のある行動であっても、他者からすれば不気味な怪異になってしまうのです。

    寒中全裸の「すたすた坊主」

     昔は、とても変わった姿と行動で、民衆から金品を頂く人たちがおりました。

     そのひとつ、享保初年頃から天保の末ごろまでに流行った【すたすた坊主】。
     これは寒中、丸裸の人が家の前に立ち、「すたすたやー、すたすたやー、すたすた坊主の来る年は、世の中よいとや申します」と早口で囃しながら踊る、というものです。「願人坊主」という大道芸人のひとつで、元々は商人に変わって社祠に参詣し、寒垢離(寒い中、水を浴びて祈願すること)などをする人たちでした。後に江戸を中心に活動し、頭に鉢巻、腰に注連縄をつけ、右手に銭を挟んだ割り竹を持ち、先の「すたすたやー」の文句で囃しながら金品を貰って歩いていたそうです。

     自宅の前で裸の人に騒がれるのは決して良い世の中ではない気がいたしますが、流行っていたのですから、受け入れられていたのでしょう。ただ、やはり裸はいけなかったらしく、後に禁じられてしまったといいます。

     同じ、金品を人から頂くという目的でも、かなり凝った「芸」や「仕掛け」を見せてくれる人たちもありました。
     江戸では「子が親を背負って金品を乞う」という光景がありました。わが子に背負われた親が「親孝行でございござい」といいながら、町中をまわったそうなのです。
     しかし、これは本物の親子ではありません。親を背負っている子のほう、実は人形なのです。腰に「若い男の人形」を縛りつけ、その人形の肩に手をかけ、あたかも我が子に背負ってもらっているように装っているのです。某仮装大賞レベルのすごいアイデアですね。
     さすがに町の人たちも人形だとわかっていましたが、真似事といっても見せてもらっているものは「良いこと」ですから、施しをしてくれたそうです。手間暇かけた甲斐がありますね。

     次に紹介するのは、「妖怪」っぽいやり方でお金稼ぎをしている例です。

    墓石と一体化した怪人「墓の幽霊」

     江戸末期に【墓の幽霊】というものが評判になったそうです。
     これは、歩きまわる墓石の幽霊です。——といっても、本物の幽霊や墓石ではありません。高さ2尺余の紙張子の墓石を腰に括りつけ、顔色を青く塗った、物乞いの人です。
     歩くときは、作り物の墓石の後ろに顔を隠しています。正面から見ると2本の脚が生えた墓石が歩いているように見えます。これは、そういう化け物に見せているのです。

     子供が集まって遊んでいるのを見るや、【墓の幽霊】は走り寄ってきて、ワヤワヤと騒ぎます。そのうち「アラ恨めしや」と墓石が前に倒れ、蒼ざめた顔色の〝幽霊〟が現れる、という仕組みです。
     肝を冷やした子供たちは逃げたり、驚いたり、笑ったり。すると墓石は起き上がり、青い顔色の〝幽霊〟の顔は隠れます。
     子供たちは怖がりながらも興味津々に後をついてきて、これを囃し立てます。こうして楽しむ子供たちを引き連れた【墓の幽霊】は、「エッ、大評判、大仕掛けの幽霊でござい」と口上を述べながら、近辺の家々や店を巡って、いくらかお金をもらっていたそうです。ひとりお化け屋敷ですね。お見事。

     さて、【墓の幽霊】は張りぼての墓石でしたが、次は本物の石塔に起きた怪事です。

    江戸に流行した「石塔磨」の怪

    『天言筆記』という文献に、文政13年の7月、【石塔磨(せきとうみがき)】なるものが各地の寺院に現れたという記録があります。
     これは寺院にある石塔が一夜で磨かれているという怪事です。夜のうちに石塔の正面だけがきれいに磨かれ、文字の部分に朱や金を入れられているのです。
     そうしてピカピカに磨かれた石塔が、ひとつの寺で2、3基も見つかるのですが、だれがなんのためにやっているのか、まったくわかりません。きれいにしてもらっているとはいえ、気味の悪いことです。

     この怪事は武州岩槻(埼玉県)の寺から起き、越谷、草加と増えていったそうです。

    『兎園小説拾遺』には、文政13年の9月下旬より、江戸の寺院で同怪事が連続したと記録されており、初秋のころ、甲斐の国の各所で起きていたことが江戸に移ってきたのだといいます。四谷の天竜寺にある戸田因幡守の家臣の墓も磨かれ、これも磨かれたのは正面のみで、戒名に墨、朱、漆(うるし)をさしてあったといいます。この話は『兎園小説拾遺』の編著者・滝沢馬琴が、三女の娘婿、渥見覚重(絵師・渥美赫州)より聞いたものでした。また馬琴の息子・興継の嫁の祖父の墓が伊皿子台(東京都港区)の寺にありましたが、その墓も何者かに磨かれたそうです。
     一夜のうちに10も15も磨かれていることもあったそうで、町奉行所には被害にあった家の者の訴えが絶えなかったといいます。

    怪事の目撃談 

     正体不明の【石塔磨】ですが、その現場を目撃したという記録もあります。
     小日向(東京都文京区)の寺の本堂の前で、3人の子守り女性がそれぞれの子を遊ばせていますと、墓所でひとりの法師が石塔を磨いています。
     ひとりの子守りが「坊様、なにをなさっているのですか」と尋ねますと、法師はなにもいわず、恐ろしい顔でキッと睨んできました。子守たちは「ワッ」と叫んで逃げだしたそうです。奇怪な僧形のものによる奇行。【にっしいぎりぎり】のような怪人ですね。

     浅草の西福寺では、不審な者たちが見られています。
     ある夜、門を叩くものがあるので、門番が「何者か」と門越しに尋ねますと、「本堂に行きたい」というので門を開いてあげました。
     そこには3人の者。中へ通しますと、なぜか3人は本堂ではなく、墓所のほうへと向かいます。すぐに門番は追いかけ、「本堂はそっちではないぞ」と呼び止めました。
     すると、急に襟元がゾッとします。なんだろうと振り返ると、束ねていた髪が切り落とされていました。
     これには驚いた門番、大声で叫んで、その場に倒れてしまいます。その声を聞いた門番の妻がやってきて彼を介抱しました。
     その後、寺の僧たちが3人を捜しましたが、もう姿はなかったといいます。

    「石塔磨」の正体は?

    【石塔磨】の正体は、なんだったのでしょうか?

     滝沢馬琴は友人から、【石塔磨】なる虫が古い絵巻に描かれていたと教わります。どの絵巻かは特定できていませんが、それは赤みのある泥亀のような虫とのこと。【石塔磨】の正体はこれだろうと友人にいわれた馬琴ですが、虫の仕業とは思えなかったようです。確かに、墓石の字に朱や墨を入れられるような虫はいません。

     馬琴は虫よりも、狐を使役する悪い山伏の仕業ではないかと疑っていました。
     そのころ、墓を磨かれた家は子孫が断絶するという噂もありました。この噂を利用し、墓磨きの怪事から守るための「守札」を売ろうとしていたのではないかと考えたのです。というのも、明和のころ、「髪切り」の怪事(人の髪が自然と切られたように落ちること)が江戸で流行した際、悪い山伏が狐に人々の髪を切らせ、「狐除けの守札」を売りつけていたとして捕らえられたことがあったのです。この【石塔磨】【墓磨】の犯人も同じなのではないかと考えたようです。そういえば、先の西福寺の事件も「髪切り」でした。

     しかしその後、馬琴は「石塔みがき後記」という記事を書きます。
     同記事によると怪事を起こしていたのは、ある難病の患者でした。

     次のような経緯がありました。

     本所立川辺に、ある道心者(仏道に帰依した人)がおりました。この人物、もとは悪党でしたが出家して仏門に入り、その後は慈善活動をしていました。ある時とき、彼はひとりの難病患者と出会い、このように教えます。「古い石塔を人に知られることなく磨きなさい」。1000の石塔を磨けば、その功徳で難病も治ると教えたのです。これを信じた病人、はじめは甲州街道で田舎寺の石塔を磨いていましたが、それだけでははかどらず、江戸中の墓を磨いていたそうです。
     結局、この病人も道心者も召し捕られてしまいました。欲からくる悪事ではありませんが、世間を騒がせたことによる罪だそうです。それから【石塔磨】の怪事はパッタリと止んだそうです。

     今は、名前も住所も職業も、家族構成まで特定されてしまう怖い時代です。不思議な行動をとる怪人も謎めく「妖怪」にはならず、ただの「ヤバイ人」となってしまいます。
    【にっしいぎりぎり】や【石塔磨】は、インターネットのない時代だからこそ生まれた怪異なのでしょう。

    【参考資料】
    菊池貴一郎『絵本風俗往来』(1971)
    宮武外骨『奇態流行史』(1922)
    「兎園小説拾遺」『日本随筆大成5』第二期(1974)
    山路興造『江戸の庶民信仰』(2008)

    黒史郎

    作家、怪異蒐集家。1974年、神奈川県生まれ。2007年「夜は一緒に散歩 しよ」で第1回「幽」怪談文学賞長編部門大賞を受賞してデビュー。実話怪談、怪奇文学などの著書多数。

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