巨大ミミズがUMA研究の端緒に! 移住先のブラジルで動物研究の道を行く/實吉達郎

文=羽仁 礼 写真=福島正夫

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    UMAをはじめ、動物、昆虫から妖怪、中国の古典に至るまで、さまざまな分野の著書を持ち、日本における動物研究に大きな影響を与えたレジェンドの実像に迫る。

    Chapter3 動物好きが高じて選んだブラジル移民の道

    動物について学ぶために東京農業大学へ進学

     少年時代の實吉氏が夢中になったのは、昆虫採集だった。クラスメイトにも何人も昆虫好きな生徒がおり、学習院中等部まで、彼らと競うように昆虫を集めては標本を作っていたという。
     当時、東京の青山には昆虫採集用具の専門店があり、そこではさまざまな材質の標本箱、針、乾燥板、その他昆虫採集に必要なあらゆる器材を売っていた。華族の子弟とはいっても、両親があまり昆虫採集に理解がなかったため、お小遣い事情はかなり厳しかったようだが、それでもお小遣いを貯めてはその店に通い詰め、主人の女性ともかなり親しくなったという。
     そこで当時は子供心に、自分に子どもができたら昆虫採集のためにたくさんお金を出してやろうと決心したというが、いざ自分が親になると、子どもたちは昆虫採集に関心を持たなかったと嘆く。

    幼少期から昆虫好きだった實吉氏。「ムー」でも昆虫の持つ不思議な行動や能力に関する記事を書いている。

     一方で、当時の少年誌に掲載される動物関係の記事も大好きで、動物に対する関心はこうした雑誌の記事で育まれたようだ。このようにしてかきたてられた動物への興味が高じて、大学は東京農業大学を選んだ。
     当時、学習院中等部に通う学生であれば、男は学習院大学、女生徒は女子学習院に進学するのが常であった。しかし實吉氏は、例外的に東京農業大学を選んだのだ。その理由は、農学を学ぶと、作物を荒らす害虫から農作業に用いる家畜まで、さまざまな動物についても勉強することができると期待してのことらしい。つまり、農業に興味があったというよりも、動物について詳しく学びたかったというのが農業大学を選んだ動機らしい。
     そのころの農業大学には、優秀な地方出身者が大勢学んでいた。彼らはいずれも、当時日本の農村が置かれた厳しい状況や、農民の貧しい生活を憂慮し、農業を発展・近代化して、農村の生活をよりよいものにしたいという意欲に燃えていたという。
     ただ、動物により大きな関心のあった實吉氏にとっては、農業自体はそれほど面白いものではなかったらしい。もちろん大学の実習で農作業も行ったが、農業に従事する気はいっさいなかったようだ。
     卒業後は三里塚御料牧場、次いで野毛山動物園に勤務した後、1955年に突如単身ブラジルに渡る。
     實吉氏がブラジル移民を決意した背景には、母校・東京農業大学の関係者にブラジルと関わりを持つ者が大勢おり、同級生の中にもブラジルに渡った者が何人かいたことがある。
     こうした同級生が書き送ってきた手紙を読むと、ブラジルという国がとても興味深く、現地での生活が非常に魅力的に思えたらしい。何よりも、日本にはいない珍しい動物たちを現地で直に観察できるという期待に心を揺さぶられたようだ。

    東京農業大学で学び、動物に関わる仕事に就いていた實吉氏は、ブラジルで珍しい動物に出会うことを期待して、ブラジルへ渡った。写真はブラジル時代の一枚。
    リオデジャネイロで撮影した記念の1枚。
    ブラジル北部アマゾナス州の州都マナウス。1962年に日本へ帰国するまで、同州などで動物の研究を行っていた。

    ブラジル生活の中で得た動物のさまざまな知識

     いざ現地を訪れてみると、生活は思っていたほど楽なものではなかったようだが、農業大学の関係者にはいろいろと助けられたと語っている。

    1955年12月15日付の地元紙の記事。實吉氏を含む総勢23名の日本人がバストスへ入植したことについて書かれている。


     ブラジルでは、現地の日系人の家庭に寄宿し、日系移民の子どもたちに日本語を教えて過ごした。その傍ら、珍しい動物を見つけたら譲ってくれるよう、知り合いに頼んでいたようである。
     そのかいあって、動物を売りたがっている原住民の情報が、日本人社会を通じて何件も舞い込んでくるようになった。そのたびに動物の持ち主なり飼い主なりと交渉してもらいうけようとするのだが、なにがしかの金銭を要求されるのが常だったという。
     当時の實吉氏はそれほど裕福でもなかったうえ、たくさんの動物を同時に飼うと、寄宿先の家族もあまりよい顔をしないので、片端から全部買い入れるというわけにもいかなかった。
     何とか安価で動物を購入しようとして、鳥類を安く販売する店も訪れたが、そのような店の鳥は尾がちぎれているなど、どこかしら傷があるものばかりだった。
     それでも、一時はナマケモノを3頭飼育したり、インコを何羽も飼っていたようだ。ダチョウの子も飼ったことがあるという。傷ついたインコは、購入後何年も丁寧に世話をして、最後は完璧な状態に回復するまで育てあげた。こうした経験が、日本に帰ってインコや小鳥の飼育法に関する著書を書く上で多いに役立ったようだ。

    1956年、バンデランデ種鶏場で初卵を採取する作業を行う實吉氏。


     現地の動物を実際に飼育してみると、日本の動物関係の書物に書かれていることが、必ずしも正しくないということもよくわかった。当時の日本では、アマゾン地域の動物を飼育した者などはほとんどおらず、動物学者が著した関係書の記述も、たいていは以前の書物からそのまま孫引きしたものばかりだったのだ。
     たとえばナマケモノについて、日本の関係書では常に木から逆さにぶら下がった姿で描かれる。また、木から下りることはなく、下りても歩くことはできない、とも書かれていた。しかし、實吉氏が実際に3頭飼ってみると、どれも木にぶら下がることはなく、垂直の柱に抱きついたまま眠っていたし、地上を歩くこともあった。ただ、歩く速さを測ってみると、1メートル進むのに4秒かかったという。

    木からぶら下がっているだけというイメージのあるナマケモノだが、実際には地上に降りて歩いたり、水中を泳いだりもできる。

    Chapter4 ブラジルで目の当たりにしたUMAの存在

    貯水池で目撃された巨大なヘビ型UMA

     ブラジルではUMAにまつわる実地体験もあったようだ。
     セアラー州のアグア・ヴェルデという場所にあるボチジア貯水池で謎の生物が目撃された事件では、現地で何人もの目撃者から直接話を聞いた。

    ブラジル滞在時の實吉氏。現地ではUMAの目撃者に直接話を聞いただけでなく、自身もトカゲに似た謎の動物を目にしている。


     この貯水池は現地の小地主たちが共同で使用しているもので、日本でいえばボートを浮かべるために作られた公園の池程度の大きさしかなかった。しかし、このような池で、長さが8メートルから10メートルもあり、巨大なヘビの体に牛の頭を持つ怪獣が目撃されたのである。
     最初の目撃は1962年8月25日のことで、實吉氏はその最初の目撃者、ルイス・クラウジオ・モレイラから直接怪獣について聴取している。
     それによると、モレイラが貯水池で釣りをしていると池の真ん中で水面が揺れはじめ、長い体をして、牛に似た顔を持つ怪獣が現れたのだという。驚いたモレイラがみんなを呼びにいき、池に戻ってきたときには、もうその姿は消えていた。
     もうひとり、9月に怪獣を目撃したアルミール・カヴァルカンテは、水の中を暴れ回るように泳いでザブザブと波を立てるものがいたので、持っていた銃を一発撃った。すると鼻に当たったらしく、より乱暴に暴れだしたので、ふたりの仲間を集めてボートを漕ぎだし、近寄って短刀で刺し殺そうとしたが、それは水の底に潜っていったという。

    セアラー州アグア・ヴェルデの様子。同地にはこうした池がいくつもあり、当時は巨大なヘビ型UMAの目撃情報が複数寄せられていた(©Google Inc.)。


     怪獣の正体について、現地では牛を飲もうとしたアナコンダという説も出たが、ブラジルの動物学者によれば牛を飲むほど大きなアナコンダはいないし、アナコンダは水中で獲物を飲んだりしないという。また、ブラジルにはジャウーというオオナマズもいるので、その見間違いとも考えられるが、結局正体はわからなかった。

    2022年、ブラジルのサンタマリア川で撮影された巨大アナコンダの映像(YouTube)。アグア・ヴェルデで目撃されたUMAもこうしたアナコンダだったのか?

    UMAミニョコンと実際に遭遇した謎の動物

     ミニョコンというUMAの噂も聞いた。UMAというものはほとんどが正体不明であるが、ミニョコンについてはそれ以上に奇妙な話が伝わっている。というのは、まったく性質の異なるUMAが、同じミニョコンという名で呼ばれているのだ。
     ミニョコンとは「巨大なミミズ」を意味する言葉だという。未知動物学創始者ともいえるベルギー出身の未知動物学者ベルナール・ユーヴェルマンによれば、ミニョコンについて最初に報告したのは、ドイツ人のフリッツ・ミュラーだという。

    ベルギーの未知動物学者ベルナール・ユーヴェルマン(写真=アフロ)。


     ミュラーによれば、それは幅5メートル、全長50メートルにもなる巨大なミミズのような生物で、身体は骨のような固いもので覆われており、柔らかい地表を樹木をなぎ倒しながら掘り進む。巨大なミニョコンが地面を掘りながら川を渡ったりすると、流れが変わってしまったり、砂漠が沼地になったりするということだった。
     実際、ミニョコンが作ったという溝や、倒した巨木というものがしばしば報告されているが、多くの目撃談では、溝を掘ったり巨木を倒したりする生物は巨大ミミズとはまったく異なる形状をしている。
     それらによればこの怪獣は、全体的に丸い形状で皮膚は硬く、巨大なアルマジロのような姿だというのだ。そこでユーヴェルマンは、このミニョコンの正体は、古代の南米に生息していた巨大なアルマジロの仲間、グリプトドンではないかとしている。
     グリプトドンは、以前は南米に人類が到達する前に絶滅したといわれていたが、グリプトドンの甲羅を加工した遺物や、人類とグリプトドンの骨が一緒に見つかるなどして、一時期人類とともに住んでいたと考えられるようになっている。それらしき排泄物が見つかったこともあり、實吉氏は今も生存している可能性のあるEMAのひとつに挙げている。 他方、ブラジル東部を流れるサンフランシスコ川では、さらに違う動物がミニョコンと呼ばれている。それは体長8メートルほどの巨大な水棲獣で、航行する船へのっそりと前足のひれをかけて上がり込んでくるという。人間に似た顔で、人のほうを見て笑うような表情をするが危害を加えることはなく、しばらく休むと水中へ戻るという。

    ユーヴェルマンによれば、ミニョコンの正体はかつて南米に棲息していたグリプトドンだという。

     實吉氏は、これは淡水に適応した未知のカイギュウ類の一種ではないかと推定している。
     さらに1962年6月には、ある日本人経営の胡椒園で、自ら不思議な動物を目撃している。このとき實吉氏は、この胡椒園で昆虫採集をしていたのだが、地面を見ると奇妙なトカゲが何匹もいることに気づいた。
     見た目には何の変哲もない茶褐色のトカゲで、体長20センチくらいのものから60センチを超えるくらいのものまでいたが、そのトカゲの走り方が非常に奇妙だった。これらのトカゲは4本足で地面を這っていることもあるが、時折立ちあがって後足だけで走ったりするのだ。走るときは胴体を垂直に起こすのではなく、上体を前方に傾ける。体は足を踏みだすたびに揺れ、かなり長い尾は地面に触れることがなかった。つまり、現在考えられている恐竜の走り方によく似ていたのだ。
     ただ、恐竜であれば足の指は3本であるが、このトカゲは5本だったとも述べている。實吉氏は著書でこのトカゲを小恐竜と呼んでいるが、捕まえることもなかったので、結局正体は不明という慎重な見方をしている。

    ミニョコンの正体について、實吉氏は未知のカイギュウの一種とみている。画像は海棲大型哺乳類のステラーカイギュウ。
    ブラジルで實吉氏が遭遇したトカゲ似の動物は、恐竜のような姿勢で走っていたという。画像はティラノサウルスの想像図(写真=Wikipediaより)。

    (月刊ムー 2024年9月号)

    羽仁 礼

    ノンフィクション作家。中東、魔術、占星術などを中心に幅広く執筆。
    ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)創設会員、一般社団法人 超常現象情報研究センター主任研究員。

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