釜茹で、鞭打ち、石臼挽き…あの世の“責め苦”を完全再現! 台湾・大崗山超峰寺の「立体地獄」/小嶋独観
珍スポ巡って25年、すべてを知る男による台湾屈指の珍寺・奇祭紹介!
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珍スポを追い求めて25年、日本と世界を渡り歩いた男によるインドネシア、トラジャ族の葬式と墓を巡る旅!(第2回)
*「死ぬために生きている人々」インドネシアのトラジャ族 第1回はこちら
今日も今日とて墓巡り。数日で私の趣向を完全にマスターしたバイタク兄貴に聞くと、「確かマランテに大きな墓があったはず……」と言うので、行ってみることにする。マランテは宿のあるランテパオから北に位置する村だ。
マランテに向かう途中の小さな部落、トンドンで墓を見つけたので早速寄り道。
田んぼの向こうの岩壁に穴を穿った墓がある様子。車道にバイクを停め、田んぼのあぜ道を牛に威嚇されながら墓に近づく。怪しい者じゃありませんよお。
近づくと、果たしてそこは岩に穴をあけた墓(リアンというそうな)だった。手前には葬式の際に使われる龕がふたつ置かれていた。頑張れば岩壁を上って岩窟墓に入る事もできそうだった。
しかし、不用意に死者の眠りを覚ますのも無粋だろうから、下から見るだけにとどめた。
マランテはタナトラジャの中央を流れるサダン川のほとりに位置する村。
近くには吊り橋もあった。
吊り橋はかなり華奢な造りだが、歩いてみると結構しっかりしていて、揺れない限り不安はないが……こ、こら。バイタク兄貴! わざと揺らすんじゃない! そして写真を撮ろうとするとすかさずアングルに入ってきてポーズを決めるのはやめてくれないかっ!
さて、マランテの村である。この村も他のトラジャの村同様、一族が一か所に集まって住んでいる。
したがって、家という概念が核家族化した現代の日本の家とはかなり異なるのだ。大家族、というよりさらに大きな親族集団で、いわばひとつの集落に近い規模を形成している。なのでトラジャ(の伝統的住居環境)では「家」と「集落」はほぼ同義と言っていい。何せたくさん家屋が並んだ「家」(つまり集落)の入口には生活雑貨や食料を売る店まであるのだ。同族相手、つまり家族相手に商売するのもどうかと思うが、トラジャでは結構見かけた。
そんな旧家にお邪魔したわけだが、家の奥へと入っていくと早速墓があった。
しかし家の規模に比べて墓の規模が小さい。これは別にまだ墓があるだろう、と思ったら、その通り。
バイタク兄貴が「こっちこっち!」と山道を降りていく。
這う這うの体でついていくと突然視界が開け、賑やかな声が聞こえてきた。
……学校じゃん!
え? 今までバイタクで山道を走り、吊り橋に揺られ(それは兄貴が揺らしたからなのだが)、獣道を歩いた先が学校? ……まあ、いいですけど。
で、件の墓は学校の真向かいにあった。それはそれで凄いロケーションだ。
巨大な岩が覆いかぶさるようになっている岩陰に墓はある。
ちょうど庇のようになっているので、墓自体は雨に濡れることはない。ここは単なる岩陰のようなところで、奥行きはない。
かつては岩陰に遺体を安置していたのだろうが、現在はその前に家型の墓が建っている。
この墓には2人の女性が安置されている。遺影と一緒に奉納されているのは菅笠。死出の旅路の必須アイテムなのだろうか。他でも墓に奉納された菅笠はよく見た。
家型の墓は基本的にコンクリ造だが、中には外壁に木材を使って木造建築風に仕上げているものもある。
もちろん壁材はトラジャの伝統的な紋様やシンボルマークで埋め尽くされている。
墓の周辺には龕がいくつも放置され、それらが崩れてきて、さらに鶏の巣と化してカオス状態になっていた。
それにしてもこれだけ死というものを重要視するのになんでお墓の周りの環境には無頓着なんだろう? もっとも、日本でも土葬だった頃は、埋葬したら墓にあまり近づかないようにしていた、という話はあちこちで聞いたことがある。日本の場合、死を忌む思想がベースにあるのだろうが、死体を葬式までの何か月間か家の中に置き、ミイラ化した死体を無理矢理起こして、と記念撮影までするといわれるトラジャの人々の死者との濃密な関係性を考えるとやや解せない。
岩陰の上部、家形の墓の上の方の岩の窪みにはタウタウ人形の姿が。人形は数体ごとに固まって奉納されている。岩に渡した板の上に座るタウタウや、手の平を天に向けて翳すタウタウ、白化してまるで血の気が引いたかのようなタウタウ人形などがいた。概ね経年により色は抜け、衣装は朽ち始めている。奉納されてから結構な年数が経っているのだろう。
棺桶が腐って落ちてきたら頭蓋骨だけそっと適当な場所に置く。葬式や墓に全力を注いで先祖を天に送ったことで、遺族の使命は終わるのだろう。だからこそ墓の周りも雑多だし、タウタウも新調しないのだ。きっと。
ある意味、潔い死生観ではあるな。
マランテの墓を見た後、ボリという村に向かう。道中、見かけた墓。
墓の軒下には、石で造られたタウタウ人形が置かれていた。
椅子に座っており、まるで道を通る人々を監視しているかのようだった。
さらに寄り道。
最近葬式をしたばかりの家を訪問した。庭先の広場には、葬式の際に使うためだけに建てられた建物が並んでいる。右手にある3層の櫓は葬儀の際、死者の棺を安置するためのもの。いわば葬式の際、一番重要な建物だ。
周辺には幅の長い高床建築。これは参列者が座るための桟敷。成程、大勢の人が参列すると聞いていたが、わざわざ専用の建物まで造るのか…。
広場の中央には石の柱が建っている。これも葬式の際に使う重要なモニュメントだ。しかし、決して墓石ではない。石柱の先端には、水牛の角が巻きつけてあった。
平坦だった道は段々曲がりくねってきて、徐々に標高が高くなってきている。そんな山道の途中にあるパンリの墓。
この村には崖や岩がないので家型の墓をつくるのだが、珍しく木造の墓だ。墓の脇にあったのはどう見ても案山子だが、これもまたタウタウ人形なのだという。お金がない人は、こういう案山子のようなタウタウ人形を奉納するのだ。
隣の墓には立派な石像が。
これはオランダ軍と戦って投獄されていたパウルス・ポン・マッサンカという人物の像。ある意味、民族の英雄なわけで、タウタウ人形という意味を越えて顕彰の意味も込めた石像なのかもしれない。
墓の裏には石棺が外に置いてあった。見れば、石像のマッサンカ氏の棺だった。1960年に亡くなったと刻まれている。
そんなこんなでボリに到着。
路傍にめちゃカッコイイ墓が。大きな岩のあちこちに、四角く墓穴が掘られている。一つの石から成る集合墓だ。何だかSF映画に出てくる異星人の家みたいでワクワクするじゃないか!
墓の開口部には故人の写真がよく掲げられている。
花や十字架が供えられている。繰り返すが、トラジャの人は今では大多数がキリスト教徒だ。
トラジャの宗教人口は多い順にプロテスタント、カトリック、地元の伝統宗教アルク・トドロ、仏教、ヒンズー教、最後にイスラム教となっている。インドネシアなのでイスラム教がもう少し多くてもおかしくないとは思うのだが、やはり豚を食えない宗教は信仰するわけにはいかない、ということか。あとヒンズー教は牛NGだしね(水牛ならいいんだっけ?)。じゃあ、牛豚を犠牲にするのはキリスト教の教義としてどうなんだ、という問題もあるが、そこはキリスト教会としては黙認なのだとか。
この地でかつてキリスト教とイスラム教の激しい教化競争があったため、キリスト教側としてもトラジャ族の根本的なアイデンティティともいえる葬送儀礼習俗にまでは口出しできない、というのが実情のようだ。
墓のある巨石の脇には穴が掘られている。
どうも、地面よりやや低い位置に墓穴を掘ろうとしているようだ。この周辺も露出している岩が少ないので、僅かなスペースでも無駄なく墓として使おうという必死さが伝わってくる。このように遺体が安置できそうなサイズの岩があったら速攻、墓にされちゃうのだ。数年後、これらの岩が掘りつくされたら、その後は先ほどのパンリ村のように家型の墓に切り替わるんだろうな。
こちらも、なかなかいい感じの墓穴群。岩の一番上の部分に新しく墓穴を掘っているところ。竹で出来た足場は、その石工用が出入りするためのもの。穴の中からカーン、カーン、とノミで石を刻む音が聞こえてくる。……手作業なんだ……。凄い手間だな。ご苦労様です。
裏に回り込むと裏側にも墓穴が。全方位穴だらけの岩だな……。
そんな力作が数多く並んでいる。
こちらはタウタウ人形の代わりなのだろうか、小さな人形が並んでいた。先程埋葬後、墓には誰も来ないような書き方をしてしまったが、確認したら命日には一族全員が墓参に訪れるそうだ。トラジャの人々は海外に移住している人が多いので、命日には世界中から親族がやって来るらしい。それはそれは大変な騒ぎなのだとか。
これもまたいい感じの墓ではないか。
この自然石に四角く穴が開いているタイプ、結構気に入っちゃったなあ。チョットした斜面でも岩肌と見れば墓にしちゃう。
最近は鍵付きタイプもある。盗まれるんだろうか、遺体。
しばらく歩くと、石柱が物凄い勢いで林立している広場に出る。ここはボリの人たちが葬式を行う場所で、一族ごとにそれぞれ石柱が建てられている。大きいものは5~6メートルもあり、地下に埋まっている部分もあるだろうから、相当大きな石柱といえる。このような大きな石柱は他ではあまり見られない。というのもボリは石の産地で、金持ちの一族が競うように巨大な石柱を建てるのだ。訪問した時も近くで石柱となる石を切り出していた。他の村で行う葬式に使うのだという。石柱の近くにあった櫓にはたくさんの牛の顎の骨が掲げられていた。これも過去に行われた葬式で捧げられた牛のものなのだろう。
ボルの集落にも寄ってみた。
ここも伝統的なトンコナンハウスが並んでいて、迫力がある。母屋とその両脇にある居住棟には、水牛の角がずらりと並んでいた。先に訪れたたブントゥ・ド・パサの旧家も凄かったが、ここもどうしてどうして。三棟にわたって角が掲げてある光景は中々の迫力。もちろん全て葬式の際に捧げた水牛の角であり、ウチはこれだけやりましたけど、的な御自慢コーナーなのだ。
トンコナンの屋根は船に似せてあると言われているが、個人的にはこの独特な屋根の形式は水牛の角を象っているように思えてならない。なぜなら、トラジャの人々の生活文化の中で、他に船を象徴するデザインってないんだよね……。むしろ水牛の角は伝統的な文様やデザインにしばしば登場するし、彼らの水牛の角へのこだわり方はチョット異常なレベルだし。そもそも、どう見たって船より水牛の角に似てるでしょ。
トラジャの墓巡り、今日は北部の山間部へ行くことにする。宿のあるランテパオからワゴン車を改造した乗合バス(ペテペテという)に乗り、牛市場のあるボルへ。そこからまたペテペテを乗り継いで山上の村まで一気に登る。そこから徒歩で山間部の村を歩いてランテパオまで降りてくる、という算段だ。ちなみに、ペテペテは地元の交通機関なので料金は激安。え、それでいいの? と思うほど安い。そのかわり、席が埋まるまでなかなか出発してくれないのだが。しばらく待っていると、同じ宿のドイツ人カップルが乗り込んできた。意気投合し、一緒にトレイルすることにした。ペテペテは呻りをあげて急な山道を登っていく。ランテパオ周辺は標高1,200メートル程度だったが、このあたりは2,000メートル近い。それでも稲作やってるところが凄いっすね。
延々と棚田が続く風景は絶景なり。1時間以上かかってバトゥトゥムンガという村に辿りつく。ペテペテが来れるのはここまで。ここから先は歩きとなる。緩い上りの舗装道を3人でテクテク歩いていく。それにしても静かだ。時折バイクが通るだけで車はほとんど来ない。たまに聞こえるのは、野放しにされている鶏の鳴き声だけ。そんな道端に比較的大型の墓があった。
まるで埼玉県にある吉見百穴の小型版のような集合墓。吉見百穴も古代人の墓、という説があるが、なるほどこういうことか。と妙に納得。
墓の周囲には多くの花輪やポスターが捧げられていた。
亡くなったのは若者なのだな。昇天せいよ。
この辺りも大きな岩盤が露出しているところが少なくいので、岩に穴を開けて墓を造っている。
何かSFっぽくて好きなんだよなあ。この岩に四角い穴がポコポコ空いてる感じ。
それにしてもどこまで行っても棚田が続く。
大きな石の上で、藁ぼっちのようなものを作っていた。
棚田の所々に大きな平たい石があり、人々はそこを作業場にしているのだ。洗濯物を巨石にペタペタとはりつけて干したりもしていたな。別ルートを目指すドイツ人カップルと別れ、独り歩いているとまたしても墓が。
どうやら作りかけの墓みたい。中を覗いてみる。内部は四角い部屋になっているが、全て手作業で削られている。
壁面に残ったノミ跡が異様な迫力をもっている。
しばらく歩くと、また工事中の墓があった。
こちらは作業中で大量の木っ端石が入口から下に排出されていた。墓の前には簡易小屋があり、奥さんと思しき女性が弁当を持ってダンナの作業が終わるのを待っていた。このリアンビラと呼ばれる岩窟墓は、数mの横穴を掘って、さらにそこから数mの竪穴を掘るという。それを全部手作業でやるとなると、何年もかかるだろう。日本の墓よりもはるかに高価な墓かもしれない。
標高は2,000メートル近くあるのだが、赤道直下だから寒くはない。つか暑い。
まるで現代アートの作品のような墓に出会った。
このような墓でも竪穴を掘る関係上、入口を上の方に設けなくてはならないのだ。
同じ石を逆アングルからみるとこんな。
石、転がり落ちませんか?
尾根伝いにだらだらと歩いていく。高台の眺めのいい場所に出た。眼下にはランテパオの街が一望出来る。小さい街だと思っていたが、こうしてみると意外と大きな街なんだなあ。
観光客がいたので挨拶してみると、今度は隣の宿に泊まっているフランス人の女子2人組ではないか。何でこんな誰もいないところなのに知った顔にばっかり出会うんだ! ……まあ、それだけ外国人観光客が泊まるところも飲み食いするところも少ないということなんだけどね……。
そうこうしているうちにパナの村に入る。鬱蒼と茂る熱帯の植物の向こうに見えてきたのは……!
ぬぅおおおお~~~!!!! すげー! コレすげー! まるで高層ビルじゃないすか! しかもフリントストーンとかギャートルズとかの世界に出てくる高層ビルね。こんな高所に一体どうやって墓穴を掘ったんだろう?
見ればビルの屋上のような部分も人工的に掘られている。
つまり、最初に一番上の崖を内側にコの字型にくり抜いて、そこから石工が吊り下がって穴を掘っていったと考えられる。よく見ると最上部には棺や骨も見える。この岩壁の裏側からコの字に抜かれた部分に行ける通路があり、葬式の際もそこから入り、上から吊り下ろして墓に遺体を納めるのだろう。まさに命がけの納棺だな。その様子を想像するだけでゾクゾクしてくるぞ。
それにしても壮大な墓だ。30メートル以上ある岩壁をド根性で掘り続けたパナの人々が積み重ねた歴史そのものといえよう。崖の下には骸骨が散乱していた。あまりにも凄い墓を見たので足が震えてきた……と、思ったら歩きすぎで膝がガクガクしてきただけだった。
〜つづく〜
(2014年8月訪問)
小嶋独観
ウェブサイト「珍寺大道場」道場主。神社仏閣ライター。日本やアジアのユニークな社寺、不思議な信仰、巨大な仏像等々を求めて精力的な取材を続けている。著書に『ヘンな神社&仏閣巡礼』(宝島社)、『珍寺大道場』(イーストプレス)、共著に『お寺に行こう!』(扶桑社)、『考える「珍スポット」知的ワンダーランドを巡る旅』(文芸社)。
珍寺大道場 http://chindera.com/
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