新作『ダークグラス』を堪能せよ! 『サスペリア』の洗礼を受けていない世代のためのダリオ・アルジェント映画入門/初見健一の昭和こどもオカルト回顧録
10年ぶりにダリオ・アルジェント作品が公開される! 「なんじゃこりゃ?」となりそうな初心者のために、味わい方を教えます!
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クロウリーの意を継ぐオカルティストにして“過激”な映像作家だったケネス・アンガー。その挑発的な作品群がブームとなった80年代サブカル=アンダーグラウンドシーンを回顧する。
前回の本稿では「ケネス・アンガー追悼」のつもりで筆を進めながらも、結局ローリング・ストーンズがらみの逸話とアンガーに関する与太話のような噂の紹介に終始してしまった。今回は彼自身と彼の「作品」について触れてみたい。
……と言いつつ、最初から白旗を掲げておくが、とてもじゃないが僕ごときにアンガーの活動の総括などできるはずもなく、本来は本気で彼に入れあげた人々による網羅的な紹介が追悼のタイミングでさまざまなメディアに掲載されてしかるべきだと思うのだが、どういうわけかそういう状況にはならなかった。
僕などには結局「ケネス・アンガーとはなんだったのか?」ということすらまったくわからないし、「彼が何をしたかったのか?」も実のところよくわからない。アレイスター・クロウリーの思想とメソッドを継承した「魔術師」としての側面についてはまるで語る言葉を持たないし、彼が遺した「作品」を通常の映画や書籍のような「作品」として扱ってしまって本当にいいのか?ということにも躊躇がある。
わかっているのは、戦後のカウンターカルチャー、ポップカルチャーの全領域に広がる暗雲のようにアンガーの影響は及び続け、好むと好まざるとに関わらず、少なくとも僕ら世代の誰もが彼の影響下にあった、ということだけだ。
同時に彼の逝去がさして話題にもならなかったということは、戦後のアメリカで勃興したいわゆる「若者文化」のはかない幻影、60~70年代に激しく先鋭化した「戦後民主主義」型カカウンターカルチャーが、すでに80年代なかばあたりから虫の息ではあったが、いよいよ完全に息の根を止められてしまったということなのか? ……とも思ってしまう。アンガーの活動はそうした領域から大きくはみ出すものでもあったとはいえ、クロウリーの金言「汝の意思することを行え。それが法のすべてとなろう」を徹底したアンガーのアンガーらしさは、カウンターカルチャーの凶暴なうねりの「先導」と「扇動」にあったと思う。異論はあると思うが、彼の放出する「毒素」は常に「若者たち」を無条件で高揚させるほど「ポップ」だった。
ケネス・アンガーは、そのプロフィールからして妖しく不明瞭である。「真偽不明」「諸説あり」の事柄が多く、伝説と事実の境界が曖昧だ。1927年、彼はカリフォルニア州サンタモニカで生まれた……とされるが、この生年すらもはっきりしない。彼について語った昔の書籍などは生年月日がまちまちで、例えば前回紹介した『悪魔を憐れむ歌』(1984年)では「1932年生まれ」となっている。
映画関係の仕事をしていた祖母の影響で幼いころから映画好きとなり、彼女のツテでマックス・ラインハルト監督の『真夏の夜の夢』(1935年)の子役に抜擢。生涯にわたってハリウッドへの愛憎を抱き続けたアンガーだが、実際にハリウッド映画に絡んだのはこの一度きり。一説によれば、このことが彼に屈折したハリウッドコンプレックス(?)を植え付けたともいわれている。ところが、この映画出演の話はまったくの虚偽だという説も有力だ。『真夏の夜の夢』の公式の資料に彼の名はクレジットされておらず、彼が演じたと主張する「王子」の役は実際には女の子が演じたことになっている。彼の著作『ハリウッド・バビロンⅡ』には彼の出演場面のスチルがデカデカと掲載されているのだが、このあたりについても真偽がはっきりしない。
思春期に入ると神秘学・魔術などのオカルト方面に多大な関心を寄せるようになり、10代でアレイスター・クロウリーが創始した「セレマ神秘主義」の信奉者となる。以降、生涯にわたってクロウリーの思想が彼の指針となった。一方で映画・映像制作への興味も高まり続け(というより、映像制作が魔術の実践の一環となったのだろう)、すでに少年時代に多数の短編映画を撮っていたらしいが、これらはすべて消失しているという。
高校卒業後の1947年、短編映画『花火』を制作し、これが初の劇場公開作品となる。しかし、この作品は15分のフィルムに暴力とSMのイメージをたっぷり詰め込んだ男色映画。同性愛が「御法度」だった時代に発表された本作によって、彼はわいせつ罪容疑で逮捕されてしまう(ジャン・コクトーは絶賛!)。
以降、作品を発表するたびに巻き起こる本国のゴタゴタ避けるため、また意に添わぬ検閲から逃れるため、主にパリに拠点を起き、前回の本稿で紹介した通りロンドンなどにも神出鬼没的に出向いては現地の芸術家やポップアイコンたちと交流しつつ、数々の短編映画を製作していく。後に『マジック・ランタン・サイクル』としてまとめられる『プース・モーメント』(1949年)、『快楽殿の創造』(1954年)、『スコピオ・ライジング』(1964年)、『我が悪魔の兄弟の呪文』(1969年)、『ルシファー・ライジング』(1966年撮影開始、1972年再撮影、1980年公開)などが各国で長年に渡り自主上映され続け、世界中のアンダーグラウンドシーンでカルト映画として語り継がれることになる。本年5月11日、カリフォルニアの介護施設で死去。(1927年の生年が真実であれば)享年96歳。
ひと世代上のアンガー信者たちの間では、彼の代表作といえば『スコピオ・ライジング』だったらしい。ロサンゼルスでの上映時に警察の襲撃を受けてフィルムは押収、映写技師が逮捕されたという逸話が残る問題作だ(これも本当かどうか……)。いっさいの台詞を排し(基本的に彼の作品は無言劇である)、淡々と流れる当時のポップスとロックンロールを背景にして、ヘルスエンジェルス的な無軌道なバイカー(暴走族)たちの夜を描いたもので、一目でデニス・ホッパーに、というか『イージーライダー』に多大な影響を与えたことがわかる作品。しかし、いわゆるニューシネマ時代に粗製乱造された破滅型青春映画とは似ても似つかないもので(それらを用意したのは明らかに本作だが)、フィルムから漂うのはバイクのパーツの金属の輝きやライダーズジャケットの革の質感などへのフェティッシュな執着、むせかえるように濃厚なホモセクシャルな空気感、そしてヒリヒリするような暴力の予兆だ。それらがなにやら宗教的な受難劇のような次元に上昇していく。バイク映画なのに痛快に疾走するバイクの描写がまったくないことにも驚いてしまうが、かの三島由紀夫は本作を大絶賛している。
しかし、80年代の日本のロック少年たちにとって、アンガーといえばなんといっても『ルシファー・ライジング』だったと思う。内容の不穏さについてはロック関連のメディアでさんさん噂を聞かされていたし、ミック・ジャガー、ジミー・ペイジ、マリアンヌ・フェイスフル、またミックの弟のクリス・ジャガーが関わっているらしいことにも興奮したし、さらには60年代にクランクインしながら、信じがたいようなあれのこれのトラブル続きで80年まで公開されなかったという背景にも魅了された。いたいけな中学生のストーンズフリークだった僕などは、「本当の『黒魔術師』が撮った『悪魔崇拝映画』とはどんなものなのだろう?」と、ただただ素直に胸をワクワクさせていたものである(ちなみに、アンガーは悪魔教会のアントン・ラヴェイと親密だったが、自身は「サタニストではない」と語っている)。
80年代初頭は「カルト映画」という言葉が定着しはじめた時期だと思うが、『ぴあ』の「自主上映」コーナーはいつも賑やかで、新旧さまざまな定番作品の上映スケジュールが記されていた。常にどこかしらで上映されていたのが『アンダルシアの犬』『カリガリ博士』『フリークス』『詩人の血』あたり、それらの古典に混じって『ピンクフラミンゴ』などなど。そうした作品を上映するミニシアターに出かけて行くと、まあ、今でいうところのサブカル少年少女というか、鼻持ちならない感じの黒づくめの女の子や男の子が『夜想』片手にスノッブな感じでたむろしてたりして、なんだか知らないけど「ふざけんな!」みたいな気分になったものだ。アンガーの作品もそうした類の映画に組み込まれ、代表作はほとんどいつでも観ることができた(黙壺子フィルム・アーカイブ!)。今にして思えば、信じがたいほど充実した文化状況である。
期待に胸をふくらませて観た『ルシファー・ライジング』は、中学生の僕には「なにがなにやら……」で、変に通俗的な感じや滑稽な感じがあまりに予想外で、ひたすら戸惑っただけだったのを覚えている。しかし困ったことに、つまらないのかというと明らかにおもしろくて、その後に観た『快楽殿の創造』の方が映像による魔術的イメージとしては圧倒的だったし、延々と神経を逆撫でされる感じがする『我が悪魔の兄弟の呪文』なども初見の印象が鮮烈だったのだが、なぜか大人になってからも繰り返し観てしまうのは『ルシファー・ライジング』なのである。当時、「識者」の大人たちの多くは「肩透かし」と評していたので、こういう感覚は後追い世代ならではのものなのかも知れない
『ルシファー・ライジング』は、その制作経緯も「なにがなにやら……」で、これについて書いているといくら紙幅があっても足りないが、ともかく度重なるトラブル続きで停滞と中断を繰り返した。お決まりの資金難、出演者の自殺(空を飛べると思い込んだうえでの飛び降り自殺だったそうだ)や仲違いなどによって何度も行われたキャスト変更、撮影済みフィルムの盗難事件……。一時は制作を断念し、アンガーは映画制作から足を洗おうと新聞に自らの死亡広告を出し、業界から消え去ることを試みたりもしている。
山積する問題のなかで、最大のものは本作に深くかかわったボビー・ボーソレイユという人物だった。あろうことか、かの「シャロン・テート事件」のマンソン・ファミリーの一員である。彼はファミリーの仲間と、ドラッグのプッシャーをやっていた知人男性を刺殺(マンソン・ファミリーが起こした最初の殺人事件である「ゲイリー・ヒンマン事件」の実行犯である)。1969年に逮捕されて死刑判決を受けてしまった(後に終身刑に減刑)。アンガーによればフィルムを盗難したのも彼だったらしい。
一方でサウンドトラック制作も難航し、当初手掛けるはずだったのはアレイスター・クロウリーのマニアとしても名高いジミー・ペイジ(クロウリーの肖像を前に「石板」を眺める男の役で出演もしている)。彼はきちんとトラックを仕上げたが、アンガーはあっさりそれをボツにする。「あいつは魔術をちょっとかじっただけのジャンキーに過ぎない。あいつの音楽はゴミだ」ということだったらしい。一説によると、次に引き受けたのがミック・ジャガーで、彼の作品はアンガーに気に入られたもののなぜか採用されず、『我が悪魔の兄弟の呪文』の方に流用されたという経緯があるという(諸説あり)。ちなみにこのムーグシンセを使ったというサントラ、音楽であることを放棄した耳障りな電子ノイズは非常に挑戦的で、ミックにこういうセンスがあったのかと驚いてしまう。
結局、最終的にサントラを担当したのは、なんと袂を分かったはずの獄中の人殺し、マンソン・ファミリーの狂犬だったボビー・ボーソレイユだった。なにがどうするとそういうことになるのかまったくかわからないが、終身刑の牢獄に機材を持ち込んで音楽を制作したそうだ。なにもかもが悪い冗談のようなお話である。
アンガーの巨大な業績(?)としては、映像作品のほかにも『ハリウッド・バビロン』と題された、これまた様々な問題を巻き起こした「呪われた本」がある。80年代後半にリブロポート(懐かしのセゾン帝国!)から完訳新装版が出て、日本でもそこら中の大型書店に平積みされた。同世代なら、例え読んでなくても独特の表紙デザインが脳裏に焼き付いているだろう。バブル期の東京ならではの嫌ったらしく儚いサブカル市場、誰もかれもが妙にアンダーグラウンド指向になる贅沢を無自覚に謳歌していた奇妙な空気感を象徴する一冊であり、しかし、そんな極東の時代状況には回収され得ぬ「奇書」である。
これについては次回……。
初見健一
昭和レトロ系ライター。東京都渋谷区生まれ。主著は『まだある。』『ぼくらの昭和オカルト大百科』『昭和こども図書館』『昭和こどもゴールデン映画劇場』(大空出版)、『昭和ちびっこ怪奇画報』『未来画報』(青幻舎)など。
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