少彦名信仰と不老長寿伝説が息づく「境界」の地ーー米子・粟島神社
あわいの島、アワシマは日本各地にあるが、鳥取県と島根県の間には「常世と現世」の間がある。
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福井の名勝、東尋坊。そこには平安時代の僧侶をめぐる血生臭い伝説があった。そして東尋坊信仰のルーツには、日本海沿海部にひろがる古代神話の影が見え隠れしている。
福井県を代表する景勝地でありながら、自殺の名所としても名高い、坂井市の東尋坊(とうじんぼう)。その名の由来は、そのものズバリ「東尋坊」という僧侶にある。
東尋坊の近くに、福井県を代表する大河・九頭竜川(くずりゅうがわ)の河口があるが、それをさかのぼった山間部の勝山市に、平泉寺白山神社が鎮座する。現在は神社だが、その名の通り神仏習合時代には平泉寺という寺院であり、また越前国における白山信仰の中心地として栄えた。最盛期には六千坊の僧院が軒を連ねる「巨大宗教都市」であり、僧兵も多数抱えていた。当然弁慶のような荒法師もいたであろう。なお義経主従が平泉に落ち延びる途中に立ち寄ったという伝説もある。
平安時代、そうした平泉寺の僧侶のひとりに「東尋坊」がいた。東尋坊は怪力無双でやりたい放題、手が付けられず仲間の僧にも疎まれていた。そうしたなか、ある日仲間の僧達は一計を案じ、海辺の断崖で宴を催すことにし、東尋坊を誘った。東尋坊はその宴で酒に酔い、寝てしまう。そして、仲間の僧達に海に突き落とされた。
しかし謀殺された東尋坊の怨念は凄まじく、空はたちまち黒雲に覆われ、激しい雷雨となり謀殺の首謀者を断崖から落として復讐した。それでも恨みは晴れず、東尋坊が突き落とされた四月五日になると、海が荒れ狂い雷雨となって、黒雲は平泉寺に向かった。そこで近隣の寺の僧や諸国行脚の僧が詩歌を作り、それを書いたものを海に沈めるとようやく収まったという。そしてこの断崖は、東尋坊と呼ばれるようになった、と。
現代の平泉寺にも東尋坊の屋敷跡があり、そこに井戸も残っている。東尋坊が殺された時、この井戸は血の色に染まったという。断崖・東尋坊の海と繋がっているともいわれる。
一方で、東尋坊は悪僧ではなかったという伝説もある。東尋坊は力こそ強かったが善僧であったというのだ。そして平泉寺の悪僧達が、平泉寺の領地を私物化しようと企み、東尋坊はそれを諫めたという。そのため悪僧達に煙たがられ、謀られて崖から突き落とされた、と。
このように180度異なる伝説がある東尋坊の由来だが、こうしたことは神話伝説には少なくない。何らかの対立がある勢力の片側から見たら、善悪が入れ替わるからだ。
だが、東尋坊という僧がここから突き落とされてそれが名前の由来になったということは共通している。ということは、この伝説の核心は東尋坊の人となりよりも、断崖から突き落とされたことにあるのではないか。
その謎を解く鍵は、東尋坊の近くに鎮座する大湊神社にある。大湊神社は式内社であり、三保大明神または三尾大明神と呼ばれる古社で、主祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)だ。その本宮は、東尋坊と同じような険しい断崖にぐるりと囲まれた雄島(おしま)に鎮座している。現在は橋により徒歩で渡ることができるが、かつては船でしか渡れなかった。
そして、本宮の社殿の前にある鳥居からは、海を挟んで正面に東尋坊を望む。逆に東尋坊の側からすれば、沖に浮かぶ雄島を遥拝する形となる。雄島へ渡る橋のたもと近くには、大湊神社の陸宮(あげのみや)があり、島の本宮に対する里宮の位置付けになっているが、山上や離島など交通困難な神社ではそうした遥拝所のような場所が複数あり、それ自体が聖地となっていることも珍しくない(僧・東尋坊ゆかりの平泉寺白山神社もその例)。つまり、東尋坊も雄島の遥拝所だったことが想定される。
大湊神社の別名は三保大明神であり、筆頭の祭神は事代主命であるということは先に述べた。これは事代主命を祭神とする、島根県の美保神社を意識したものと思われる。記紀神話では出雲の国譲りの際、大国主命の子・事代主命は、高天原からの使者に、帰順の可否を迫られた。その時、美保で漁をしていた事代主命は、帰順を誓って船を踏み傾けて青柴垣に変え、そのなかに身を隠す。
この神話を端的に解釈すれば、事代主命は海に身を投げたということになるだろう。また事代主命は、蛭子神(ひるこのかみ)とともに「エビス」ともされており、海と非常に関係が深い。そして、漂う水死体を「エビス」として崇拝の対象とする信仰もある。事代主命は、水死体と深い関係のある神なのだ。
これらのことを考え合わせてみると、東尋坊伝説のルーツは、事代主命の国譲り神話にあるのではないか。東尋坊や大湊神社のある坂井市三国町安島(あんとう)の地には、古代に「エゾ」が住んでおり、朝廷の派遣した四道将軍によって追い払われたとの話が伝わる。ここでいう「エゾ」とは、北海道のアイヌのことではなく、古代東北の住民・エミシを指すものと思われる(漢字表記はともに「蝦夷」)。
エミシはエビスとも呼ばれる。エビスの表記は「恵比寿」や「恵比須」が一般的だが、「夷」や「蝦夷」という表記もある。越の国のエミシの存在も記録されており、後に越後国となる領域のことと思われるが、同じく越から分立した越前国にもいた可能性はあるだろう。
一方で、その分立前の越の国は、古代、出雲の影響下にあったことが神話から窺われる。古事記には大国主命が糸魚川まで求婚にいった話があり、また北陸には広く大国主命のローカルな神話や信仰がある。能登一宮の気多大社も、越中一宮の高瀬神社も、越後一宮の居多神社も、大国主命を祭神としている。闘争による混乱を引き起こした能登の能登比咩神(のとひめのかみ)と越中の姉倉比売神(あねくらひめのかみ)を、大国主命が処罰したというローカルな神話もある。
平泉寺白山神社の神体山というべき白山は、御前峰、剣ヶ峰、大汝峰(おおなんじみね)という三つの峰から成るが、その大汝峰という名は、大国主命の別名・大己貴命(おおなむちのみこと)にちなむ。北陸最高峰・立山のそのまた最高峰も、大汝山という名である。越の国とは、エミシ=エビスの住む国であり、同時に出雲の影響下にある国だったのである。
出雲傘下の人々のうち、朝廷に従わない人々が北へ北へと追われていって、エミシと呼ばれるようになった可能性もある。青森県最高峰・岩木山に鎮座する岩木山神社の筆頭の祭神も大国主命であり、津軽の沼から宝玉を得た女神が大国主命に献上したという、やはりローカルな神話もある。
越前・加賀の国境近くで、式内社が鎮まる越前海岸最大の島・雄島が浮かび、福井県最大の河川・九頭竜川の河口もある東尋坊周辺は、古代から地政学的に重要な地だった。九頭竜川河口にある三国港は、古くは三国湊と呼ばれ、奈良時代には日本海の向こうにあった国家・渤海(ぼっかい)から戻った日本の使者が帰着したと『続日本紀』にはある。中世日本の十大港湾「三津七湊」のひとつにも数えられている。大湊神社の名にある湊というのも三国湊を指すと思われる。
雄島の神が、襲来した大陸の異国船を追い返したという言い伝えもある。人々や物資がいきかう交通の要衝は、同時に宗教的に重要な場所でもある。経済的繁栄と防衛を神に祈り、宗教的権威で治安を維持しなければならない。そういう場所で、古代、大和による出雲勢力の駆逐が行なわれ、何らか血を見る事件があったのではないか。
それが東尋坊伝説のルーツであり、後の仏教の普及、平泉寺勢力の拡大により、反朝廷的な神話が僧の話に置き換わったのではないか。それであれば、悪僧・善僧双方の話が伝わり、しかも悪僧の話が優勢なのも納得がいく。対立する勢力のどちらからしても、相手の側は悪であり、自分の側は善であって、しかも当然勝者の視点が優勢な伝承になるからである。
東尋坊は神聖なる島・雄島を望む聖地であり、「東尋坊」が無念の死を遂げた場所なのだ。ここで自ら死を選ぶようなことはせず、無念を汲んで、その分も生きるべきである。もっと生きたかった「東尋坊」の分も、生きるのだ。
高橋御山人
在野の神話伝説研究家。日本の「邪神」考察と伝承地探訪サイト「邪神大神宮」大宮司。
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