SFとオカルトを横断した70年代オカルトブームの功労者/超常現象研究家 南山 宏(1)

文=羽仁 礼

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    1970年代に巻き起こったオカルトブームのパイオニア、南山宏の肖像に迫る!

    超常世界のジャンルを開拓し広める!!

     南山宏氏は、1960年代前半から小学館や旺文社の学習雑誌をはじめとする少年向けの媒体に超常現象関連記事の執筆を始め、以来今日に至るまで、60年以上にわたって絶え間なく活躍を続ける最古参の研究家である。
     超常現象関連の記事や著作では一貫して南山宏の筆名を用いているが、本名は森優という。「SFマガジン」編集部時代には「優」を「まさる」と読ませ、「M・M」のイニシャルで記事を執筆し、他にも大山優や森勇軒、森勇謙といった名前で翻訳を発表したこともある。このように多彩な筆名を使いわけているのだが、本稿では混乱を避けるため、特に断らない限り南山宏で統一することにする。
     超常現象の世界で南山氏が果たした役割はとてつもなく大きい。
     彼が発明した和製英語で、「未確認動物」を意味する「UMA(Unidenti Mysterious Animals)」という単語は、今や世間の日常会話にも頻繁に登場するし世界にも通用しつつある。UMAだけでなくUFOや超能力、超古代文明、謎の消滅事件など、おおよそ超常現象に分類されるアイテムで彼が手を染めていないものはない。
     翻訳書も含め、毎年何冊も著書を発表しつづけ、これまで執筆した雑誌記事は総数を把握するのが困難なほどだ。バミューダ海域やオーパーツ、アカンバロの恐竜土偶、ロズウェル事件など、彼の著書をきっかけとして日本での知名度が格段に高まった事項も枚挙にいとまがなく、まさに「超常世界の鉄人」である。

    アカンバロの恐竜土偶。
    牧場に円盤が落下と発表後、すぐに観測気球だったと発表しなおされたことで物議をかもすことになるロズウェル事件。いずれも日本では、南山氏によって紹介され広められた。


     本誌「ムー」との関係でも、氏には創刊前の準備段階から企画の相談に関わっていただいており、今や45年を超える「ムー」の歴史の中でも多数の記事を執筆してもらっている。1984(昭和59)年に連載を開始した「南山宏のちょっと不思議な話」などは、40年を経た現在も連載継続中である。

    1984年に「ムー」で連載が始まってから40年以上、休むことなく続けられている「南山宏のちょっと不思議な話」。

     さらに南山氏は、日本最初の民間UFO研究団体「日本空飛ぶ円盤研究会」会員でもある。この団体の会員は、現在そのほとんどが鬼籍に入っている中、当時の状況を知る貴重な生き証人である。
     そして、現在は超常現象研究家として知られる南山氏だが、1960(昭和35)年にアルバイトとして入社以来、早川書房でSF専門誌「SFマガジン」の編集に携わった経歴ももっている。1969(昭和44)年から1974(昭和49)年に退社するまでは2代目編集長を務め、「SFマガジン」の発行部数を4万部近くにまで押し上げ、ハヤカワSF文庫(現在はハヤカワ文庫SF)を創設するなどの業績を挙げたばかりか、数多くのSF作家を世に送り出した辣腕編集者でもあったのだ。

    南山氏は1969年から「S-Fマガジン」の2代目編集長を務めた。

     したがって氏の人生を振り返ると、超常現象の関係者だけでなく、大御所ともいえる大勢の有名SF作家、さらには、何人もの直木賞受賞者までもが登場してくることになる。

    南山氏の超常現象研究では海外フィールドワークも数々行っている。/ナスカの地上絵の外れに立つ木材のウッドヘンジ。手前の人形は遺跡復元時に地中から掘り出されたもの。
    南山氏の超常現象研究では海外フィールドワークも数々行っている。/地上絵巨大図形の直線の中を歩く南山氏。図形の巨大さがわかる。

    裕福から一変した少年時代の生活

     南山氏は1936(昭和11)年7月29日、当時の東京府東京市麻布区麻布北日ヶ窪町(現在は六本木の一部)に、大山優として生まれた。父親の大山幸雄は売れない絵描きであったが、老舗の質屋店の養子にもなっており、一家は麻布区に家作を持って借料も入ってきたから、それなりに裕福な家庭であった。
     小学校は当初、家の近所にある南山小学校に通っていたが、2年のときに第2次世界大戦の戦況が悪化したため、母親の親戚が住む栃木県大田原市に一家で疎開した。終戦は小学校3年のとき大田原市で迎えるが、家族はそのまま栃木県に残った。
     大田原市では、生活が一変する。
     父の幸雄は非常に温厚な人物で、南山少年は怒られたことは一度もないというが、絵描きとしてはそれほど認められておらず、時折入ってくる看板描きなどの仕事で得られるわずかな収入しかなかった。そこで母親も働くようになったが、それでも十分ではなく、生活は苦しかった。
     こうした状況にあって父・幸雄は、しばしば東京の養家に無心に訪れていたが、養家では幸雄が養子に入った後に実子が生まれていた。さらに無心が度重なったせいもあって、最後には絶縁されたという。
     南山氏が大田原中学校に進んだころには疎開先の家賃が支払えなくなり、市内の沼袋という場所にある粗末な建物に移り住み、中学も西那須野中学に転校した。場所は大田原高校から5分ほどの場所だったが、家があまりみすぼらしいため、友人を招くことはなかったという。
     両親の仲も次第に険悪になり、母親がいくつもの新興宗教に入れあげるなどしたあげく遂には離婚した。
     南山氏も正式には母親の旧姓である森姓になったが、その後もしばらくは「大山」という通り名を用いていたようだ。

    (月刊ムー 2024年11月号)

    羽仁 礼

    ノンフィクション作家。中東、魔術、占星術などを中心に幅広く執筆。
    ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)創設会員、一般社団法人 超常現象情報研究センター主任研究員。

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