合気道の開祖・植芝盛平の鎮魂力/MUTube&特集紹介  2024年8月号

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    唯一無二の境地を開いた武術界の巨星・植芝盛平。彼が武の奥 義を極めたことの裏には、壮絶な神秘体験と神界からの導きがあった。令和の現代、霊界通信によって降臨した盛平霊は何を語ったのか三上編集長がMUTubeで解説。

    合気道の開祖が獲得した鎮魂力とは

     合気道開祖・植芝盛平の身辺には、数々の超人伝説がつきまとっている。
     人間の規格から遙かに超脱したその武術の伎倆については、すでに数多くの証言が弟子や関係者などから語られているし、ネット上にも膨大な関係記事がアップされているので、ここで改めて書くことはしない。この原稿のテーマは、盛平が「魂の合気」と呼んでいた謎の力を彼にもたらしたものは、いったい何だったのかを考えることだ。
     結論を先に書いておくなら、それは盛平が身心両面にわたる壮絶な修行を通じて獲得した「天狗系の鎮魂力」だった。
     鎮魂力といっても、古神道などでいう鎮魂力ではない。また、盛平にまつわる神秘説で付き物のように語られている言霊説や、記紀の神々とも関係はない。力の源泉は、まさに鎮魂力にあったということを、筆者は盛平の霊からじかに聞いた。
     それについては後の章でじっくり書いていくこととし、まずは生前、盛平自身が語っていた神秘体験から見ていくことにしよう。

    人生を決定づけた神秘体験

    壮年時代の肉体は異様なまでに頑健で、数人がかりでも抜けない生木を根ごと引き抜くほどの豪力を誇っていた。自分に鉄砲は当たらないとも語っており、高弟だった塩田剛三も、盛平が実際に銃弾から身をかわす姿を、じかにその目で見たと回顧している。
     盛平は、銃弾より先に飛んでくる「光のツブテ」が見え、白刃の場合も刃より先に走ってくる光の刃が見えたと語っている。それが見えた最初は、盛平が師と仰いでいた出口王仁三郎の護衛として大正13年(1924)に渡満し(盛平40歳)、蒙古をめざす旅の途中で体験した銃撃戦だった。その後、一行は吉林省のパインタラで奉天軍に捕まり、全員銃殺刑になる寸前で日本領事館の介入により救われ、本国に送還された。そして翌年、彼は、その後の人生を決定づける神秘体験をする。「大正十四年の春だったと思う。私が一人で庭を散歩していると、突然天地が動揺して、大地から黄金の気がふきあがり、私の身体をつつむと共に、私自身も黄金体と化したような感じがした。それと同時に、身心共に軽くなり、小鳥のささやきの意味もわかりこの宇宙を創造された神の心が、はっきり理解できるようになった。その瞬間、私は、『武道の根源は、神の愛(万有愛護の精神)である』と悟り得て、法悦の涙がとめどなく頬を流れた。
     その時以来、私は、この地球全体が我が家、日月星辰はことごとく我がものと感じるようになり、眼前の地位や、名誉や財宝は勿論、強くなろうという執着も一切なくなった」(『武産合気』高橋英雄編)「黄金体体験」と呼ばれるこの神秘体験をきっかけに、盛平の修行は、神仏・宇宙と一体となるための修行へと飛躍した。

    自身のアートマンと出会い、真理を知る

     神仏との一体化は、あらゆる神秘主義に共通する窮極の目標だ。この目標を達成するために、ある者は座禅・瞑想し、ある者は山岳抖擻などの過酷な苦行に命をかけ、またある者は芸術家や職人として創造に全霊を捧げる。
     神と一体となるための方法は、それに取り組む者の宿縁や機縁、資質などによりまちまちだが、盛平は、かつて北海道で師事した武田惣角の合気柔術を通して、この難行に取り組んだ。ずっと後年(昭和34年〔1959〕1月)、盛平は、本部道場の鏡開きの日の講話で、弟子たちを前に、こう語っている。
    「私は日々一切の執着を除く修行をして、自分の光身を見たりしたこと、即ちある時は大光明火炎を背負った不動明王に、ある時は観世音菩薩などに見えたりしたのでありますが、植芝は植芝自身にきき、そして知ったのであります。この私の中に宇宙があるのであります。すべてがあるのであります」
     ここでいう「光身を見た」とは、先の「黄金体体験」のことだ。その後、盛平は、自身が不動明王や観音菩薩と化した光身も見たわけだが、それらは盛平の本体ではなく、本体に行き着く前の幻像だった。その奥境で、盛平はついに、神霊界に実在する自分自身の本体と出会った。
     自分自身の本体とは、インド哲学でいうアートマン(真我)に等しい。アートマンは、自分というものの本質・本体のことで、宇宙の原理であるブラフマン(梵)と同じものと考えられ、神秘主義思想の中で「梵我一如」などと表現されてきた。すなわち神との一体化である。
     その境地に達するための瞑想やヨーガなどの身体技法が、後にヒンドゥー教や仏教などに引き継がれていくのだが、盛平は合気の実践を通じて、まさしく自身のアートマンと出会った。講話中の「植芝は植芝自身にきき、そして知った」というのは、彼が自分の本体(アートマン)に教えられ、真理を知ったという意味だ。だからこそ、「この私の中に宇宙があるのであります。すべてがあるのであります」といい切ったのである。

    (文=不二龍彦 イラストレーション=久保田晃司)

    続きは本誌(電子版)で。

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    webムー編集部

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