ハロン湾は巨大龍の住処だ! ベトナムのシーサーペント伝説を追う
首都ハノイからも近いハロン湾には、巨大な水棲怪獣が住むという。19世紀末から目撃報告が多数記録されてきたUMAは、まだ生きているのだ。
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空飛ぶ円盤、未確認飛行物体、UFOーー。こういった用語や概念が浸透していない時代のベトナムにも、謎めいた飛翔体の記録がある。現地ライターがベトナムUFO事例をピックアップした。
ハモンドオルガンが奏でるスタイリッシュな音楽にのって、矢島正明のナレーションではじまる英国ドラマ「謎の円盤UFO」。日本では1970年から71年にかけて放映された。著者は当時8歳。タイトルバックのイカしたメカや乗り物に心躍らせていた。
当時の日本の子供たちの間にUFO(ユーエフオー)、未確認飛行物体という言葉を深く刻み込んだという点で画期的なドラマだった。その後、ピンクレディーやインスタント焼きそばのおかげで、UFOは「ユーフォー」と読むのが日本では一般的になったが、私の世代にとってUFOは「ユーエフオー」でなければならない。このドラマの放映ののち、UFOディレクターの矢追純一がテレビ番組「木曜スペシャル」などで、盛んにUFOを取り上げたことで、当時の少年たちはさらにUFOに魅せられてしまったのだ。
人間より優れた生命体が地球以外の天体からUFOに乗って地球に現れたのかもしれないとの想像は、アポロ計画による月面着陸とそこからの帰還という、これまた奇想天外な人類的プロジェクトの成功によって、もしかしたらありえるかも知れないとの確信へと変わったのだ。
「謎の円盤UFO」が放映されていた当時、ベトナムでは戦争があった。内戦にアメリカが介入する形で冷戦下にあってホット・ウォーが展開されていた。今もウクライナで、パレスチナでホット・ウォーは繰り返されている。
私の住むベトナムでもたびたびUFOは目撃されている。
2012年12月9日、午後5時、ベトナム中部タインホア省の19歳の青年、レー・ハック・ダットは何気なく家の前の空を携帯で撮影した。後で見返してみると画面左上にくっきりと空飛ぶ円盤が写っていたという。あまりにも鮮明なために周囲の人々はPhotoshopなどで写真を加工したのではないかと疑ったが、彼のもっている携帯に保存されたままの元の写真をみて、やはり加工したものではなく真正のUFO写真であると確認したと各紙は伝えている。
その1年前、2011年にもUFOの目撃映像とされたものがベトナムを騒がせた。
ホーチミン市の第3区の集合住宅で、2011年7月25日、深夜0時に撮影された26秒にもわたる「空飛ぶ円盤」が撮影され、翌日のYouTubeで公開されたのだ。ネット上で話題となったが、本物の「空飛ぶ円盤」かどうかを確かめる術はない。
さらにその1年前にもハノイで撮影されたとされる未確認飛行物体のビデオクリップが公開された。
ハノイのグエン・スアン・ブー氏が2010年10月28日の午前5時から30分にかけて撮影したものだという。この映像をみて天文学者のひとりは、高度1万メートルを飛ぶ民間機とその飛行機雲が朝日に照らされて光り輝いて見えたものに過ぎないと断じている。
さらに不可解な未確認飛行物体の爆発と、その後その物体の破片が回収されるという事件が起きている。
それは2008年5月27日午前10時20分ごろ、タイランド湾に浮かぶベトナム最大の島、フーコック島でのこと。フーコック島北西部の村の上空で爆発が起き、その40分後に多数の金属製の破片が空から降ってきたというものだ。現地紙によれば、30日までに回収された破片は11におよぶという。大きなものは長さ1.4メートル、幅0.7メートルもの大きさがあったそうだ。
不思議なのは、この爆発があってからただちにフーコック島の地方政権はベトナム国内航空会社および近隣のタイ、カンボジアにも問い合わせをだしたが、遭難した飛行機はないとの回答だった。
爆発は高度8000メートル上空で起きているが、爆発した飛行物体が民間機なのか、軍用機なのかは発生時点ではわからないとされた。そして未確認のまま、時間だけが経過し、その物体がなんであったのかを報じた後追い報道はないまま現在にいたっている。全く不可解な事件であった。
1960年代から70年代初頭まで闘われたベトナム戦争中にもUFOは目撃されているだけでなく、攻撃を受けて人的な被害を受けた事例さえ報告されている。
アリゾナ州フェニックスに拠点を有する、UFO専門報道サイト”Opneminds.tv”。その調査報道レポーターであるアントニオ・フエネス氏は、ベトナム戦争の退役軍人からの聞き取りや戦争当時の記事をまとめて同サイトに「ベトナム戦争時期におけるUFO」と題する記事を掲載している。
1967年、ベトナム中部のクアンナム省チューライ付近の田舎道を軍用トラックで通過した際にトラックの荷台に載せられた米国軍人がヤシカ製カメラElectro-35で撮影したとされる写真を冒頭に紹介している。この写真はベトナム戦争中、唯一UFO目撃写真として撮影されたものだそうだ。
次の目撃証言は、おそらくはナコンパノム王室タイ空軍基地の米軍情報センターに勤務していた米国空軍のある技術軍曹のものだ。
「ある日(1969年頃)マルチレーダー上で、彼らは毎時7000マイルの速度でなんども直角に旋回する飛翔体を追跡していた。彼らは空軍、陸軍、海軍そして海兵隊の最高司令官たちに確認をした。全員がその時間帯に飛行する航空機はないと回答した。もちろん、情報センターにいる連中はこの出来事に他言無用と口止めされた」
毎時7000マイル、つまり毎時1万1000キロメートルという速度は実に音速の11倍に相当する。1966年に実践配備された米空軍の偵察機SR-71は当時、世界最速といわれたが、それでも速度はマッハ3.2、つまり時速に直すと3,916キロだ。毎時1万1000キロメートルで巡航し、かつ、直角に旋回するなどという物体は当時も、そして今ですらありえない。
1965年から5年間にわたりベトナム戦争に従軍したピート・マゾーラの証言も興味深い。
「ジャングルをパトロールしているとき、なんどか星を見上げることがあった。流星の動きとしては普通じゃない動きをする流れ星を僕は複数回目撃したんだ」
若い兵士だったマゾーラは正確に日付を記憶していないが1966年か67年ころだという。
マゾーラは前方の田んぼとヤシの木の上に不思議なものが浮かんでいるのをみて、背の高い象草の中で足をとめた。
「自分がみたものが信じられなかった。ほかの連中も同じものを見たんだが、ショックが大きすぎて『あれはいったい全体なんなのだ?』としか口をついて出なかった」
彼は小隊の射弾観測者として敵の位置座標を米海軍の船に知らせた。
マゾーラは南からの米国の戦艦からの最初の着弾音を聴いた。
「物体は別の方向、北からのベトコンの砲弾の攻撃を受け、空中に黒い煙が浮かぶのをみたんだ」
彼にはUFOが砲弾を早めに爆発させるようななにかを行っているように感じた。物体は「静かに、おごそかに空中を急上昇し」そして去った、とマゾーラは語った。
お次は1966年6月にベトナム中南部の沿海都市ニャチャンの基地で起こった出来事だ。この事件の顛末はアメリカ空中現象調査委員会=NICAPという組織の機関紙で発表された。アントニオ・フエネスはその記事をもとに記述しているが、NICAPの資料をアーカイブするウェブサイトにこのニャチャンでの事件の顛末を記した記事と手紙のコピーも見つけたので、それを紹介する。
「そう、これはビッグニュースだ。昨晩の午後9:45ごろ、約4万人を擁するこのキャンプでパニックがおきて、信じて欲しいんだけど、僕も怖かったんだ…」という文書ではじまる手紙。
日付は1966年6月20日付、ベトナムのニャチャンから直接NICAPのあるメンバーに届いたものだ。書いたのは米兵Wayne Dalrympleとある。
「発電機をたいて映画を屋外でみてたんだよ、どこからともなくとても明るい光がさした。最初は火がたかれたのかと思ったけど、違うんだ。そいつは北の方角からきて、ゆっくり動いたかと思うと急に速く動くんだ…。パイロットの連中によれば25,000フィートからだっていうんだからパニックになっちまった。俺たちに向かって下降し、約300から500フィート頭上に死んだように停まった。昼間のようにキャンプのまわりを取り囲む谷と山、すべてが照らし出された。そして突如、そいつがものの2、3秒で垂直に上昇して視界から消えたんだ」
この報告を寄せた兵士は続いて、映画をみるために回していた発電機から約半マイルにわたって軍のキャンプにあった発電機、2機の飛行機、ブルドーザー8台などが4分間にわたってすべてストップ、真っ暗になったことを報告している。皆ショックを受けて口々に噂話をし、ワシントンからもお偉いさんが来て今日の午後調査するとも書いている。
兵士は手紙に「物体の直径は50フィートほどで、丸い形をして光り輝いていた」とする以外に詳しい記述はない。ただし「誓って、誰かが緑色の小さな人物をみたと主張したとしても僕はやつらと議論はしたくないね」と結んでいる。
危害を加えることはないにしても該当するエリアのエンジンを短時間であっても、すべて停止させることができるという力はどこから来るものなのだろうか?
フエネス氏は小論の中で、米軍の文書の中からも未確認飛行物体を公式に報告しているものもあることをいくつか紹介している。
彼はAP電やニューズウィークからの報道でこの事件を紹介しているが、米国の海軍史遺産司令部のウェブサイトの2018年の記事に基づき、1968年、南北ベトナムを隔てる、北緯17度線のDMZ=非武装地帯付近で活動していたある高速哨戒艇PCF-19の遭難事件を紹介しよう。この事件は海軍史の専門家が取り上げているうえ、未確認飛行物体からの攻撃で沈没、3名の犠牲者を出している点で特筆すべき事件だ。
1968年の春にかけ、米国海兵隊などからDMZの北部と近隣の海域において夜間にホバリングする光が複数報告されていた。UFOでないかと噂するものもあったし、いやヘリコプターだとするものもあった。ただし日中の偵察によればDMZや近海にはヘリコプターの存在や北ベトナム軍のヘリコプターによる活動を示す形跡はなかった。
そもそも夜間の軍事的な飛行なのに光を灯す理由がわからなかった。また、当時マシンガンやロケットが搭載されたソ連製のMI-4ハウンドヘリコプターが北ベトナムに配備されていたが、主にラオスのホーチミンルートにのみ用いられていたことが確認されていた。ソ連製の攻撃用ヘリは当時開発途上にあったから実践に配備されることはありえないとしている。
1968年6月15日から16日にかけての深夜、高速哨戒艇PCF-19が何者かによって攻撃を受けた。突如かつ悲劇的なもので、そして驚くべきものだった。海岸警備艇Point Dumeは、未確認の出所から2発のロケット弾がPCF-19に名中し、数時間後には「未確認の飛行体」から砲撃を受けたと伝えている。
同警備艇はPCF-19から2名の重症者を救出、哨戒艇は爆発し、沈んだとDMZの観測ポストであるアルファワンの将校が報告している。
PCF-19の攻撃に対応して高速哨戒艇PCF-12が対応、その船員の目撃証言によれば上述のMI-4 Houndの特徴と一致する「ヘリコプター」によって砲撃された。PCF-12は応戦して、そのヘリコプターを砲撃し、おそらくは撃ち落としたと報告した。次の日にあたりを捜索したがその機体の残骸も部品もみつからなかった。
PCF-19の生存者の捜索にあたっていたPCF-12は、港と右舷側との間に二つの飛行体がホバリングしているのを確認した。その二つの飛行体の所属を確認したところ友軍機はこの海域を飛んでいないとのことだった。レーダーとナイトスコープによってヘリコプターの一つに狙いを定めて曳航弾付マシンガンを放った。応戦中の未確認の飛行体と交戦中であることを無線で報告した。「ヘリコプター一機」を撃ち落とし、海中に墜落する水飛沫の音を聴いたと報告されている。
この高速哨戒艇の事件で3名の米兵とひとりのベトナム人が犠牲となった。
ただ、この事件の前日に友軍機によって他の戦艦が攻撃をうける事件があったため、なぜかこの高速哨戒艇の事件も、「ヘリコプター」の残骸や形跡が見つからなかったことから、友軍機による誤射によるものとして処理されてしまったという。
ベトナム戦争当時のUFO目撃談として最後に紹介されているのは1972年9月29日にAFP電として伝えられている「ハノイの空のUFOはなにか?」という記事である。
AFPの記者が「金曜日ハノイの快晴の青空にミステリアスな物体、地上からのミサイル攻撃にも微動だにせず」と伝えた。
「球体でオレンジ色に光輝き、かなりの高度にあることは間違いない」北ベトナムの防空軍が地対空ミサイルを3つ放ったが、目標に届きそうもなかった。物体はその高度を同じくして1時間20分留まった。物体は「最後には当初よりもその明るさを失ったかのようだった」という言葉で結んでいる。
実はベトナムがフランスの植民地であった時代にもUFOは目撃されている。フランスのカトリック教会の新聞「Le Mémorial de la Loire et de la Haute-Loire」は1888年1月17日付の記事で次のように報じている。
「1887年10月23日夜、午後8時ごろタイニン省とサイゴンで火球が観測された。火球は満月の半分ほどの球体で、色は紫色がかった青色をしていた。火球は長く火花のような尾をもち、約30秒にわたり飛行した。
この地域の郡長がタイニン省の行政局に次のようにしらせてきた。
旧暦9月、タンドゥック村に未知の動物が侵入してきた。その日は雨と雷があった。この動物は空へと去っていった。地面には長さ20m、幅5m、深さ4メートルの穴があいた。謹んで報告する。署名:フイン・ヴァン・ニュー
11月23日、フランス人船長、医師、軍医が彗星が墜落した場所を訪れた。長さ32メートル、幅6m、深さ2mの大きな穴があり、彗星は近くの川に激突したものと思われた。土は濡れた泥炭をナイフで鋭くえぐったかのようだった」
彗星の墜落でできた穴は細長い洋梨のようだが、彗星そのものは見つからず、大きくバウンドして南シナ海に落ちたようだと続く。それを郡長は「動物は天国へ行った」と表現したのだろうと書き加えている。このあたりに彗星がよく落ちるが、直径30mもの彗星が落ちたという記録はないと記事は結んでいる。
郡長は彗星ではなく、なぜ「未知の動物」が侵入し、その後空に去ったと証言したのか。球体のUFOが不時着し、そのUFOの乗客であった「動物」と遭遇したのであろうか。そんな想像をかきたてる記事である。
「大越史記全書」は17世紀に成立した、漢文の、編年体によって記述されたベトナムの正史である。ベトナムが中国から独立するまでとディン朝からレ朝までの各王朝史をまとめたものだ。この史書には、「ほうき星」や「二つの太陽」などの奇妙な現象が現れたことが記されている。現代ではほうき星は流星、彗星を指し、二つの太陽との記述はおそらく「幻日」などの大気現象であると説明することができよう。
この史書にはそうした天文現象などで説明のできない記述も存在している。大越史記全書の卷之十七・世宗毅皇帝の項には次のような記述がある。
「時乂安瓊瑠鯀東回社有大白石,不知何自而來,在海門水中,躍出平地,隔水十五丈而止。土人以為靈異,立祠事之。」
(1582年、ゲアン省クインリュウ県ドンホイ村に大きな白い石があった。これはどこからやってきたのかわからず、海中より躍り出て地と並行に、海面から15丈離れて止まった。地方の人々はこれを霊異と畏れて祠を建てた)
大きな白い石、それも海中から現れて海面から15丈、すなわち約60メートルほどの高さで空中に止まったというのは、いったいどんな物体なのだろう。大きな白い石と見えたのは、いまでいう未確認飛行物体ではなかったのか。ゲアン省クインリュウ県ドンホイ村は今も現存する。南シナ海に面しており、砂浜のある海水浴場も確認できる。
いかがだったろうか。ベトナムに現れたUFO、未確認飛行物体の古今の事例を紹介してきた。
UFOは目撃証言があれば、米国政府のみならず各国政府もその正体を真剣に追求し、それが人類にとって悪意のあるものでないかどうか、真剣に調査する必要にせまられている。時代はそのことを要請している。
これはベトナムにおいても同様だろう。過去の記録、そして現在の目撃証言についても精査する必要があるのではないか。
新妻東一
ベトナム在住でメディアコーディネート、ライター、通訳・翻訳などに従事。ベトナムと日本の近現代史、特に仏領インドシナ、仏印進駐時代の美術・文化交流史、鉄道史に通じる。配偶者はベトナム人。
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