<オピニオン>騎馬民族征服王朝説を再考したい

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◆たいやき

 騎馬民族が来た、来ないの論争があったが、どこからいつごろ来たかが問題だ。
 北九州から本州西端にわたって分布する神護石がある。神護石は高句麗などの山城の石垣と同類。つまり高句麗郡が倭を占領した可能性が大きい。高句麗郡が騎馬戦で戦う。
 では、いつか。高句麗好太王碑が決め手だろう。
 一般的には朝鮮半島北部まで倭軍が満ち溢れていたから、倭の大勝利と解釈されている。しかし戦略的に問題がある。
 食料や武器の補給は困難なはず。倭軍は敗北したと考えるのが無難。石碑を残すのは高句麗が大勝利したからだ。
 つまり高句麗好太王軍が倭を滅ぼし支配したと考えられる。
 倭をほぼ平定したので、倭の新政権として認めてもらうよう中国へ使者を送ったのが、倭の五王だ。最初の使者は421年。倭王讃だ。
 現代では『日本書紀』の応神天皇といわれる存在、第15代天皇である。中国が朝鮮半島の国の称号を倭に与えたのは、倭がその証拠を出し、中国がそれを認めたからだ。倭人の王権では無理だ。
 第26代継体天皇は応神天皇の5世の子孫(来孫)と『日本書紀』に記している。 応神天皇は高句麗系の王。子孫ということは継体天皇も高句麗系ということだ。
 そもそも継体とは、形を継ぐが血の繋がりがない。さらに気になるのが崩御後の記載、
「また聞くところによると日本の天皇、及び太子、皇子皆死(崩・薨)んでしまった」
 第15代応神天皇から5代の天皇は、第20代安康天皇だ。この天皇から後は元嘉暦で、その前は新しい儀鳳暦だ。つまり、逆だとのヒントか。

(本投稿は月刊『ムー』2025年3月号より転載したものです)

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