シャンバラから地上に送られたチベット仏教の最高権威!「転生者ダライ・ラマ」の基礎知識

文=泉 保也

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    チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世。 インドに亡命し、中国との絶えざる緊張関係の中にありながら、チベットの宗教・政治の最高指導者として、精力的に活動を続ける人物である。 世界平和を説き、チベットの正義と自治を求めるその姿はよく知られているが、何百年も生まれ変わりを繰り返している「転生者」という一面については、一般にはあまり認知されていないようだ。 衆生(しゅじょう)を救うために、伝説の王国シャンバラから遣わされた使者――。 ダライ・ラマとはいったいどんな人物なのだろうか。

    代々受け継がれる最高指導者の称号

     チベットの宗教・政治の最高指導者として世界的に著名な「ダライ・ラマ」。その呼称を人名と誤解している人もいるようだが、そうではない。

     ダライ・ラマは称号であり、標準チベット語(ラサ方言)では「ターレー・ラーマ」、チベット民族の間では「ギャルワ・リンポチェ(法皇猊下)」もしくは「クンドゥン(陛下/猊下)」と呼ばれる。

    チベットの宗教的・政治的指導者であるダライ・ラマ14世(写真=Wikipediaより)。

     最初にダライ・ラマの称号を用いたのはスーナム・ギャツォ。16世紀のモンゴルの支配者アルタン・ハーンが、デプン寺の座主(ざす)だったスーナム・ギャツォを師と仰いでダライ・ラマの称号を贈り、代々用いられるようになった。ただし、スーナム・ギャツォは第1世ではなく第3世である。

    モンゴルの支配者アルタン・ハーン。デプン寺の座主だったスーナム・ギャツォに「ダライ・ラマ」の称号を贈った。

     チベット仏教ゲルク派の開祖ツォンカパ大師の高弟だったゲンドゥン・ドゥプパにダライ・ラマの称号を追贈し、彼が第1世になった。第2世ダライ・ラマのゲンドゥン・ギャツォも死後の追贈で、この第2世以後のダライ・ラマは全員が法名に「ギャツオ」を用いるようになる。

    死後に称号を贈られ「ダライ・ラマ1世」となったゲンドゥン・ドゥプパ。

     ダライはモンゴル語で「大海」、ラマはチベット語で「師/教師/指導者」の意。ギャツォはチベット語で「大海」を意味し、モンゴル語のダライに対応している。

     チベット仏教(ラマ教)はタントラ密教を教義の主流とし、チベット伝統のボン教の呪術的要素も含む独自の仏教で、7世紀に形成され、ゲルク派、ニンマ派、カギュ派、サキャ派の4宗派がある。

     このうち、ダライ・ラマの名跡を継承するゲルク派は、代替わりが進むにつれ、チベット第一の都市であるラサのセラ、デプン両寺の座主職を兼任して同派のモンゴル布教の最前線に立ち、その地位を高めるとともに、モンゴルに対して大きな影響力を持つようになった。

     1577年にはラマ教ゲルク派がモンゴルの国教とされ、その過程でアルタン・ハーンはスーナム・ギャツォにダライ・ラマの称号を贈ったのである。

     その後もモンゴルにおけるラマ教ゲルク派の隆盛は続き、ダライ・ラマの信奉者で西モンゴル・オイラトの指導者グシ・ハーンが1637年からチベットの征服を開始し、1642年までに中央チベット、アムド、カムなどチベットの大部分を制圧。中央チベットのヤルンツァンポ河流域の広大な領土をダライ・ラマに寄進したことにより、ダライ・ラマを長とするチベット政府(ガンデンポタン)が成立する。

    チベット高原南部を流れるヤルンツァンポ河。ダライ・ラマは、肥沃で広大な中央チベット地域を治める最高権力者となった。

     その結果、ダライ・ラマの名跡は、宗教面ではゲルク派の有力名跡から宗派を超えたチベット仏教界の最高権威に変貌するとともに、政治面でもチベット政府の長、チベットの元首としての地位を保有することになった。

     すなわち、チベットで最も肥沃な領土を掌握し、グシ・ハーン一族とそれに従属する諸侯たちの領主権の認定、各地のゲルク派寺院の人事権の認定に携わるなど、宗教的かつ世俗的な権威と権限をチベット全域で行使する唯一絶対の存在に上りつめたのである。

     以来、歴代のダライ・ラマはラサを政治基盤とし、ゲルク派序列第1位の僧であると同時に、チベット全域の政教両面の最高指導者でありつづけてきた。

     そして第5世のロサン・ギャツォ以降のダライ・ラマはラサのポタラ宮殿を居城とした。13階建てで部屋数は1000以上という巨大宮殿だが、内部はほとんど公開されておらず、秘密のベールに覆われている。

    ダライ・ラマ5世が居城とし、チベット政府の本拠地となったポタラ宮。現在はユネスコの世界遺産に登録されているが、内部は大半が非公開となっている。
    ダライ・ラマ5世のロサン・ギャツォ。

    チベットの地底に広がる伝説の聖地シャンバラ

     このポタラ宮殿の地下には、地底にあるとされる禁断の聖地にして永遠の理想郷「シャンバラ」への入り口があるといわれる。

     シャンバラの存在を記述する最古の文献は、紀元1世紀ごろに成立したボン教の経典で、そこに描かれる地図にはペルシア、バクトリア、バビロン、ユダヤ、エジプトといった古代国家群とともに、シャンバラの名もはっきりと記されている。

     その後の文献資料にもシャンバラに関する記述は散見されるが、それらの多くは断片的で不明な部分が多く、全体像を知るには「時輪タントラ」に頼るしかない。

     インド密教最後の経典とされる時輪タントラは、伝承によれば、次のような過程を経て成立した。

     紀元前4世紀ころ、シャカが南インドのダーニヤカタカで行っていた説教を聴いた初代シャンバラ王スチャンドラがいたく感動し、その教えをシャンバラに持ち帰って人々に伝えた。それ以降、それぞれ100年間ずつ統治する6代にわたる王がシャカの教えを忠実に守り、7代目の王スレーシャーナの子シャスが経典をつくった。11世紀のことで、これが時輪タントラである。

    シャンバラ王。王たちはそれぞれ100年ずつシャンバラを治めるという。

     では、時輪タントラが伝えるシャンバラの姿はどうなのか。紙幅の関係もあるので、簡単なスケッチで紹介したい。

     シャンバラは7つの大陸に囲まれた南の中央大陸にある。この大陸はさらに6つの地域に分かれており、シャンバラは北からふたつ目に位置している。だが、神聖なるシャンバラが人目に触れることは滅多にない。氷雪に輝く巨大な山脈の輪がシャンバラを覆い隠し、そこに適さないいっさいの人間を完全に拒絶しているからだ。

     巨大な山脈の内側で、シャンバラはまた別の山脈に囲まれた中央部と、それを取り囲む8つの地域に分かれている。その8つの地域にはそれぞれ12の公国、すなわち96の公国があり、諸侯はシャンバラ王に忠節を誓っている。

    聖なる王国シャンバラを表したタンカ。雪を頂く山々によって二重に囲まれ、常人にはとうていたどり着くことはできないとされる(撮影=安田仁志)。

     シャンバラの首都は中央部にあり、首都の中心には金銀、ダイヤモンド、真珠、クリスタル、エメラルド、サファイア、珊瑚(さんご)、瑠璃(るり)などでできた壮麗な宮殿がある。

     シャンバラ全体は宮殿が放つクリスタルの神秘パワーに充ちており、病も苦も飢えもなく、犯罪もなく、慈愛と平和だけが満たされている。住民は不老不死ではないが、誰もが100歳以上の長寿をまっとうできる。

     彼ら住民の最大の関心事は悟りを得ることであり、人々は太古以来の至高の叡智の学習と実践に励んで卓越した精神文化を築きあげており、特異な超能力を獲得する者も少なくない。

    ロシアの芸術家ニコライ・レーリッヒ。チベットの山道で謎の僧侶と出会ってから、晩年をシャンバラ探索に費やした。
    シャンバラをテーマにしたレーリッヒの作品。

     科学技術も地上のそれを遙かに凌駕するほどに超高度で、「ヴィマーナ」と呼ばれる乗り物で地下トンネル内を高速移動する。地上の人間がしばしば目撃するUFOは、このヴィマーナだとする説もあることを付記して、話をダライ・ラマに戻そう。

    インド神話に「神の乗り物」として伝わる飛行機械ヴィマーナ(上下)。シャンバラには現代の最新技術を凌駕する高度な文化があるという。

    シャンバラの叡智を継ぐ転生者ダライ・ラマ

     歴代のダライ・ラマはそのシャンバラから地上へ送り込まれたエージェントのひとりとされる一方、チベットの国土と衆生を観音菩薩の所化(しょけ)と位置づけるチベット仏教では観音菩薩の化身=「活仏」と見なされている。

     ダライ・ラマは襲名性だが、襲名は単なる儀式的なものではない。チベット仏教では転生思想が重視され、ダライ・ラマだけでなく、高位のラマ僧は例外なく転生者と考えられている。

     第1世ゲンドゥン・ドゥプパから現在の第14世テンジン・ギャツオまで、ダライ・ラマは生まれ変わりを続けてきた同一人物である、とラマ教信者は信じて疑わないのだ。

     つまり、先代の跡を継ぐ者はその魂が乗り移った化身とされ、ダライ・ラマが歿(ぼっ)すると独特の後継候補者捜しが行われる。

     ダライ・ラマ14世もむろん転生者であり、その即位までの過程は次のようなものだった。

     第13世トゥプテン・ギャツォは1933年に遷化(せんげ)し、直後から摂政や高僧、高官によって後継者候補すなわち転生者捜しが始められた。

    1933年に死去したダライ・ラマ13世のトゥプテン・ギャツォ。

     その後継転生者は幼児だが、13世が死去したときと同時刻もしくはその直後に誕生した子どもでなければならないということはない。13世の死後に生まれたチベット全域の子どもが対象である。

     だが、子どもの数は非常に多く、個々に当たっていたのでは途方もない時間と費用がかかってしまう。そこで、後継転生者捜しは昔ながらの伝統に従い、きわめて厳密なシステムによって行われることになっている。

     神託をうかがい、祈禱と瞑想によって後継転生者を捜すべき方向を決定するのが第一歩だ。

     14世の場合は、ラサの北東の空に奇妙な形の雲が出現し、南面して聖堂に安置されていた13世の遺体の頭が数日後に東に向きを変え、さらにその聖堂の北東側の木の柱に星の形をした大きなキノコが突然生えたことなどによって、捜すべき方向が暗示された。

     別のお告げもあった。1935年、チベットの摂政がラサ郊外の聖なる湖ラモイ・ラツォの畔で瞑想中、後継転生者を特定するいくつかのイメージを幻視した。

     未来の光景を見ることができると信じられている湖面に「Ah」「Ka」「Ma」というチベット文字が浮かびあがり、続いて緑色と金色の屋根の3階建ての僧院とそこから丘に続いている1本の道の映像が視え、最後に青緑色の瓦屋根と変な形をした樋がある小さな家の映像が視えた。

     これらの幻影は詳細に描写されて厳重に保管され、その写しを携えた政府高官と高僧が、翌年、チベット全土へ派遣された。

     そのうちの一隊は、チベット北東部に位置するアムドへ向かった。「Ah」がアムドの「ア」、「Ka」がクムブム僧院の「ク」、「Ka」と「Ma」がカルマ・ロルファイ・ドルジェ寺院を暗示しているのではないかと推測したのである。

    転生の記憶と数々の試験で見つけだされた第14世

     アムド入りした捜索隊は、クムブム僧院が緑色をした屋根を持つ3階建てであったことから、推測が正しかったことを確信。付近の村々を探し回り、タクツェル村で青緑色の瓦屋根の上にこぶだらけの松が走っている民家を発見した。

     しかもその家には、1935年7月6日(チベット暦5月6日)生まれで、2歳になる男児がいた。9人目の子で、名はラモ・ドンドゥプ。長男のトゥブテン・ジグメ・ノルブはすでに高僧タクツェル・リンポチェの生まれ変わりとして認められ、クムブム僧院で修行中だった。きわめて有力な後継転生者候補だ。

     そこで、捜索隊の隊員ふたりが変装し、道案内役の現地僧とともにその家を訪ねた。下級僧侶が隊長のふりをし、本当の隊長を務めるセラ寺の高僧が貧しい服装をした召使い役に変装し、身分を隠したのである。

     ラモ・ドンドゥプは召使いに変装した高僧を見た瞬間、彼のところへ行って膝の上に坐ろうとした。しかも高僧が首のあたりにかけていた数珠(じゅず)に見覚えがあるようで、しきりにほしがった。

    「その数珠をください」

     それは第13世ダライ・ラマが使用していた数珠だった。

    「自分がだれだか当てることができたらあげよう」

    「セラ・アガでしょう」

     セラ・アガとは土地の方言でセラ寺の高僧を意味する。

     翌朝、一行が出発の準備をしていると、ラモ・ドンドゥプは彼らと一緒に行きたいとせがみもした。

    幼少時代のダライ・ラマ14世。転生者の捜索隊が家に来たとき、2歳の彼は転生の記憶を持つ様子を見せた。(画像=Wikipedia
    ラマ教ゲルグ派の主要寺院のひとつであるセラ寺。ダライ・ラマ14世の捜索隊にもセラ寺の僧が加わっていた。

     また、ダライ・ラマ13世はカルマ・ロルファイ・ドルジェ寺院に滞在したことがあり、そのときラモ・ドンドゥプが生まれた家をしばらく眺めていて「美しい場所だ」といったことも判明した。

     13世の転生者としての状況証拠は揃っている。が、それだけではまだ転生者とは認められない。さらに厳格な試験にパスしなければならないのだ。

     まずラモ・ドンドゥプの天宮図(ホロスコープ)が作成され、ダライ・ラマ13世の生まれ変わりかどうかが調べられた。さらに、身体に特別のしるしがあるかどうかを確認したうえで、3歳になるのを待って、転生の有力証拠とされる前世記憶があるかどうかのテストが行われた。

     13世の遺品とそれとそっくりの偽物、たとえば黒い数珠、黄色い数珠、大太鼓、小太鼓、錫杖(しゃくじょう)などをラモ・ドンドゥプに見せたところ、いずれも正しいほうの遺品を選び、「僕のだ」といった。

     前世を記憶していなければ絶対に不可能なテストに合格したのだ。

     かくて、チベット北東部の寒村で生まれたラモ・ドンドゥプは真正ダライ・ラマの生まれ変わり、第13世トゥプテン・ギャツオの転生者と認定され、ジェツン・ジャンペル・ガワン・ロサン・イシ・テンジン・ギャツォ(聖主・穏やかな栄光・憐れみ深い・信仰の護持者・智慧の大海の意)と名づけられた。

     そして1939年の夏、家族とともにダライ・ラマの夏の離宮であるノルブリンカ宮殿へ入ることになるのである。

    ダライ・ラマが夏の離宮として使っていたノルブリンカ宮殿。

     1940年冬にはポタラ宮殿へ移り、チベットの精神的(宗教的)指導者の座に正式に就任。ラサのジョカン寺で剃髪式、見習い僧の儀式が行われ、ダライ・ラマとしての帝王学を授けられた。

     ダライ・ラマに認定された転生者は、幼児期にただちに法王継承の儀式を受けるが、その時点ではあくまでも宗教的権威者にとどまる。そして成人すると(通例は18歳)、あらためて〝チベット王〟としての即位式を行い、政治的な最高権力をも保有するのである。

     先代の遷化から新法王の即位までの間は、摂政が国家元首の地位といっさいの政務を代行する。

     だが、1950年、中華人民共和国の軍隊が「人民を解放する」と称してチベットに侵攻し、全域を自国に併合した。圧政と人権侵害に耐えかねたダライ・ラマ14世は1959年、インドへ亡命して現在に至っている。

    ラマ僧をはじめ、チベット人の精神的な支えとして、ダライ・ラマはかけがえのない存在となっている。
    チベット亡命政府(ガンデンポタン)の旗。亡命政府は現在、インドのダラムサラに本拠地を置いている。

    ●参考資料=『チベットわが祖国──ダライ・ラマ自叙伝』(木村肥佐生訳/中央公論新社)、「生まれ変わり(転生)の証明」(島大蔵/「ムー」69号所収)、「神聖シャンバラの秘密」(中野雄司/「ムー」138号所収)ほか
    Wikipedia ダライ・ラマ

    (月刊ムー 2010年10月号初出)

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