今もなお奇跡が起きている! 聖母マリア出現の聖地 「ルールドの泉」の基礎知識

文=羽仁礼

    毎回、「ムー」的な視点から、世界中にあふれる不可思議な事象や謎めいた事件を振り返っていくムーペディア。 今回は、フランス南部の小さな町で、少女が聖母マリアの導きで見つけた奇跡の水と、その発見の物語を取りあげる。

    ルールドの水がもたらした72番目の奇跡

     イタリアのアントニエッタ・ラコが、ルールドへの巡礼に参加したのは、2009年7月のことだった。

     2004年以来、彼女は激しい頭痛や筋肉の痙攣、無力感に苦しんでいた。翌年になると症状は一層進行し、食べ物を飲み込むのが難しくなり、言葉もきちんとしゃべれなくなった。歩行も困難になり、歩行中に何度も倒れるようになった。
     翌年、医者は彼女の病気を「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」と診断した。ALSは、全身の筋肉が徐々に衰え、最終的には呼吸さえできなくなって死亡する難病で、原因は不明であり、有効な治療法もない。
     2008年には呼吸機能が大きく減退し、四肢も麻痺して寝たきりになり、移動には車椅子が必須で、介助が欠かせなくなってしまった。

     このような状態で、ラコは最後の望みを託して、イタリアの団体が組織したルールドへの巡礼に参加した。たとえ病気が治らなくても、せめてカトリックの聖地を訪れ、心の安らぎを得た上で死にたい――そんな思いだったようだ。

     ラコのように、自分で動くことができないような重病人も、毎年大勢ルールドを訪れる。ルールドの水浴場には網でできた担架があり、動けない者はこの担架に乗せて、世話係が水に浸けてくれる。

     体が水に浸かったとき、ラコは首筋にだれかがキスをしたような感触を覚え、女性の声で「恐れることはありません」と3度囁くのが聞こえた。この声に、彼女は涙を流して祈りはじめた。そして水から上がると、なんと自分の脚で歩くことができるようになっていたのである。

     帰国して検査を受けると、ラコを蝕んでいた症状はすっかり消えていた。2010年、この事例はルールド国際医学協会に報告され、何年もかけて厳正な審査が行われた。その結果、今年4月16日に、ルールドでの72番目の奇跡と正式に認定された。

    難病を患っていたアントニエッタ・ラコは、ルールドの水に浸かったことで奇跡的な回復を遂げた。写真は闘病中(左)と回復後(右)の様子。(写真=YouTubeチャンネル「trmh24」より)
    2025年4月16日、ラコの治癒がルールドの72番目の奇跡として認定されたことが発表された。(写真=YouTubeチャンネル「trmh24」より)
    ※参考動画 YouTubeチャンネル「trmh24」より

    少女ベルナデットと白い貴婦人との出会い

     フランス南部、ピレネー山脈の中腹にあるルールドの町と、万病を癒やすという奇跡の泉の存在は、今や世界中に知れ渡っている。人口1万5000人にも満たないこの小さな町は、ローマ・カトリックの重要な巡礼地でもあり、毎年600万人もの巡礼者や観光客が訪れる。

     この町の名を世界に知らしめた奇跡の泉の物語は、1858年、ベルナデット・スビルーという貧しい少女に起きた不思議な体験に始まる。

    ルールドの町外れの川岸で、白い貴婦人(聖母マリア)の導きによって奇跡の水を見つけたベルナデット。

     ベルナデットは1844年1月7日、父フランソワと母ルイーズの長女に産まれた。その後、父が破産したため、生活は極端に貧しく、ベルナデット本人も生来体が弱かった。さらに6歳のときに気管支炎を患い、10歳でコレラにかかり、その後もずっと喘息に苦しんで、発育も悪かった。

     その出来事が初めて起きた1858年2月11日、昼食の準備をしようとした母親ルイーズは、煮炊きするための薪がないことに気づいた。一家はそれほどに貧しかったのだ。

     そこで、ベルナデットと妹のマリー・トワネット、それに隣家のジャンヌ・アバディーの3人が、町外れにあるガーヴ川の岸まで薪を拾いに行くことになった。この辺りには木の枝がたくさん落ちており、貧しい人々はよく薪を拾いに来ていたのだ。

     ガーヴ川からは、水車を回すために長さ800~900メートルの堀川が引かれており、この堀川がもう一度ガーヴ川に合流する辺りに、「マッサビエルの洞窟」と呼ばれる小さな洞窟があった。

     子どもたちはあちこちで薪を拾いながら、マッサビエルの洞窟の近くまで来た。そこで堀川の向こう岸を見ると、薪がたくさん落ちていた。この日は、堀川がせき止められていて水は浅く、歩いても安全に渡れそうだった。

    2月のことでもあり、川の水は氷のように冷たかったが、妹とジャンヌはさっさと裸足になって向こう岸へ渡っていった。ベルナデットは最初、自分の喘息のことを考えてためらっていたが、対岸からふたりにせき立てられて、近くにあった石に腰を降ろし、靴下を脱ごうとした。その瞬間、激しい風のような音がした。

     驚いて辺りを見渡したが、何も異常はなかった。そこでもう一度靴下に手をかけると、同じような音が聞こえた。立ちあがって対岸のふたりを呼ぼうとしたが、声が出なかった。

    ベルナデットが顔を上げて洞窟のほうを見ると、その入り口にある雑草や野バラが激しい風を受けたようになびいていたが、ほかの場所の草花はなんともなかった。そこでまた音が聞こえ、洞窟から黄金色の雲が出てきた。と、次の瞬間にはそこに、年の若い、美しく気高い女性が立っていた。

     その貴婦人は、年のころは16歳か17歳くらいで、白くて長い衣服を身にまとい、両足はつま先だけが見えていた。胸の下に空色の帯を結び、その両端が膝の辺りまで垂れていた。頭に被った白いベールは、背と両腕を覆って膝の下まで垂れ、右腕にかけたロザリオも膝の辺りまで垂れ下がっていた。その体のまわりはまぶしく光り輝いていて、目がくらむほどだった。

     貴婦人はベルナデットを見ると少し頭を下げ、にっこり会釈した。ベルナデットは何かの見間違いではないかと思い、幾度も目をこすってまばたきをしたが、彼女はやはりそこに立っていて、じっとこちらを見ていた。
     それから貴婦人はベルナデットを手招きしたが、すっかり怖くなったベルナデットは近づくことができなかった。その代わりに自分のロザリオを取りだして跪(ひざまず)き、祈りはじめた。ベルナデットがロザリオの祈りを唱え終わると、貴婦人はていねいに会釈して洞窟の奥に消えた。

    聖母マリアと出会い、ルールドの泉の奇跡を生みだしたベルナデット・スビルー。
    ベルナデットが聖母マリアと出会った1858年当時の洞窟の様子。

    聖母マリアの導きで湧きだした聖なる泉

     ベルナデットのこの不思議な体験は、すぐに町の噂となった。貴婦人の姿はベルナデットにしか見えなかったのだが、彼女が語るその姿形から、聖母マリアが現れたのではないかという話が広まった。

     ただ、その正体不明の人物について、ベルナデット自身は地元で話されるオック語の方言で「アケロ」と呼びつづけた。「あれ」とか「それ」といった意味である。

    マッサビエルの洞窟に現れた聖母マリアとベルナデットの姿を描いたスケッチ。
    ルールドで起こった出来事について報じた当時の新聞記事。

     不思議な貴婦人の出現は、その後7月16日まで計19回続いた。 回を重ねるに連れ、ベルナデットに従って洞窟を訪れる人の数は増殖し、3月4日には2万人に達したともいわれている。

     奇跡の泉が湧きだしたのは2月25日、9回目の出現のときだった。

     この日、いつもの通り跪いて祈っていたベルナデットは、立ちあがって洞窟のほうへ進むと、岩の下に咲く野バラをかきわけて土に接吻した。
     それからもとの場所に戻って祈りを唱えた後、再び立ちあがると、次にどこへ向かうべきか思案する素振りを見せた。それからおもむろに後ろを振り返って左を向き、いつもの場所から8~9メートルのところで地面を掘りはじめた。すると、たちまち地面から水が湧きだして辺りに溢れた。湧きだしたばかりの水は泥水だったが、彼女はそれを飲み、その水で顔を洗ったので、顔が泥だらけになった。

     あとでベルナデットが述べたところでは、貴婦人が「泉で水を飲み、顔を洗いなさい」といったのだが、近くに泉がなく、迷っていたら左のほうを指さしたので、そこを掘ったら泉が湧きだしたのだという。

    洞窟に向かって祈りを捧げるベルナデット。彼女は計19回、聖母マリアとの邂逅を果たしている。

     最初は非常に少量の泥水だった泉の水はたちまち水量を増し、透き通った水がガーヴ川に注ぐようになった。

     水が湧きだした翌日、早速最初の奇跡的治癒が発生した。黒内障で悩んでいた石工のルイ・ブリエットが泉の水で顔を洗ったところ、病が完治したのだ。噂を聞いた病人たちが、こぞって泉の水を飲んだり、浸かったりしはじめ、10年間麻痺していた手が動くようになった、骨軟化症で死にかけていた乳児が健康体になったなど、奇跡的な治癒が続いた。

     貴婦人が正体を明らかにしたのは、3月25日、17回目の出現のときだった。

     それ以前に、「アケロ」は洞窟に聖堂が建てられること、行列が行われることを願うとベルナデットに伝えていた。ベルナデットはルールド教会の主任司祭であるペラマール神父に貴婦人の願いを伝え、神父は「そういうことなら、彼女の名を尋ねろ」と答えていた。
     名前を尋ねてもただ微笑むだけの「アケロ」だったが、3月25日になってこう語った。「私は、汚れなき孕(やど)りです」と。

     ローマ・カトリックにおいては、すべての人間は人類の祖アダムとエバが犯した原罪を背負って生まれてくる。しかし、神の子イエスはもちろん、イエスを生んだ聖母マリアもまた、この原罪を免れている。それが「汚れなき孕り」という教義である。つまりこの言葉は、聖母マリアを示す呼称でもあるのだ。

    その後、ベルナデットは聖地ヌヴェールにあるサン・ジルダール修道院で修道女となり、生涯を信仰に捧げた。
    1879年、35歳の若さで亡くなったベルナデット。不思議なことに遺体は長らく腐敗せず、現在はガラスケースに収められ、サン・ジルダール修道院に安置されている。

    数え切れない治癒の例と奇跡認定の厳格さ

     こうしてルールドは正式に聖母マリア出現の地と認定され、今では聖母が願った通り、豪華な聖堂が建てられ、行列の祭式が行われている。

    聖母マリアが現れたマッサビエルの洞窟。現在は一大聖地として、治癒の奇跡を求めて日々多くの参拝者が訪れている。(写真=BRUNNER Emmanuel, Manu25/wikimedia commonsより)
    現在、マッサビエルの洞窟の上には、巨大なロザリオ・バジリカ大聖堂が建てられている。(写真=BRUNNER Emmanuel,manu25/wikimedia commonsより)

     泉の水による治癒も、その後絶えることなく生じている。この種の治癒は、年間3000件も発生しているといわれる。ルールドの水は世界中に運ばれ、その水を飲んで病気が治ったという事例ともなると、もはや数えることもできない。

    洞窟の奥にはベルナデットが見つけた泉があり、今もこんこんと水が湧きだしている。写真はガラスで保護された源泉。
    ルールドの泉にはだれでも利用できる水汲み場があり、近隣の土産店では土産品としてルールドの水が売られている。(写真=Patrice Bon/wikimedia commonsより)

     しかし冒頭に述べた通り、ローマ・カトリック教会が公式に奇跡と認定した治癒は、現時点で72件しかない。

     ローマ・カトリックにおいては、奇跡とは、神のみに帰せられる自然法則に反する現象である。そこで、何らかの超自然現象を真に神の御手による奇跡と認定するために、厳格な手続きを定めている。

     ルールドにおける治癒についても、例外ではない。通常ではあり得ないような病気の治癒が発生した場合、まずはルールド国際医学委員会が、本当に医学的に説明できないものかどうかを調査する。どうしても説明がつかない事例と判断が下ると、パリの国家医学委員会に報告を提出する。ここでは患者本人や証言者の出席のもとに再調査され、その上で治癒が自然法則に反していると結論づけられれば、患者が住む地域を管轄する司教の調査を受ける。司教の調査は、医学的というより宗教的なものである。この段階においては患者の信仰や素行までもが考慮される。こうした複雑な手続きを経るため、最終判断までに何年もかかるのだ。

     ただ、この奇跡認定はあくまでもローマ・カトリック教会の規則に則ったものである。今やルールドを訪れる者は、ローマ・カトリックの信者だけではない。他の宗教や宗派を信じるさまざまな人間がルールドを訪れ、そんな彼らの間にも奇跡的な治癒は発生しているのだ。

     奇跡の泉は、宗教で人を選別するようなことはしないのである。

    ●参考資料=『ルルドの出来事』(志村辰弥著/中央出版)

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