僕は前世で特攻隊だった! /MUTube&特集紹介  2025年9月号

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    2014年生まれのジョウ君は特攻隊として出撃した過去生の記憶を持つという。この事例の調査に当たった生まれ変わり事例の研究者・大門正幸氏に詳しい話をうかがった。この記事を三上編集長がMUTubeで解説。

    「ちえこ」とはだれ? ご両親は首を傾げる

    「ジョウ君のお母様から最初にSNSでメッセージをいただいたのは、2024年12月18日です。うちの子がこんなことを話していると、およその内容を知らせてくださいました。そのあと何度かやりとりをして、12月28日にオンラインでお話を聞きました。はじまりはそんな感じでしたね」
     生まれ変わり事例の研究者として国内外で知られる大門正幸氏(中部大学教授・バージニア大学客員教授)は、ジョウ君との出会いをそう語る。
     ジョウ君は現在、小学5年生。特攻隊に志願し、1945年4月12日に出撃した穴澤利夫氏の過去生記憶を持つ。また、その記憶は「ちえこ」という女性と固く結びついている。
     のちにわかったことだが、「ちえこ」とは過去生での婚約者、孫田智恵子さんの名前である。穴澤氏は智恵子さんに深い愛情を抱いたまま出撃し、帰らぬ人となった。
     そして、約70年の時を経て、2014年5月30日にふたたび日本に生まれ、ジョウ君として人生を歩みはじめるわけだが、そんなジョウ君が真っ先に思いだしたのは「ちえこ」という名前と彼女への愛情だった。
    「過去生記憶を持つ事例では、親密な関係にあった人に対して強い愛情を示すケースがしばしば見られますが、ジョウ君の場合は、愛情の深さという点で群を抜いています」
     と、大門氏はいう。
     大門氏のインタビューに応えてジョウ君本人が語ったところによると、ごく幼いころから「ちえこ」という名前がとても気になっていたそうだ。
     お母さんの話によれば、保育園児のころ、好きな子の名前を尋ねたら「ちえこ」と答えた。しかし、友だちにも保育園の先生にもその名前の人はいなかったので不思議に思ったという。
     また、小学校に入学して間もない時期に「感謝したい人に手紙を書く」という時間があった。ほかの児童が母親や父親への手紙を書くなか、ジョウ君は「ちえこ」への手紙を書いた。
    「ちえこに会いたい」
     折に触れて、ジョウ君はそう口にした。ご両親は「ちえこって、だれだろう」と首を傾げるばかりだった。
     それまでにも、ご両親をとまどわせるような行動が多々あった。
     2歳になったころ、飛行機に興味を示したので旅客機のおもちゃを買い与えると「違う」といった。石川県立航空プラザへ遊びにいったときは戦闘機の展示資料に見入り、そこから離れようとすると泣きじゃくった。帰り際には戦闘機のおもちゃを見つけてほしがり、その場から動かなかった。
     3歳くらいのとき、「もしもし」といって電話をかける仕草をした。ところがそれは、受話器と送話器が分離した古いタイプの電話機を使うときの仕草だった。このタイプが一般的だったのは1930年代までだ。
    「絵を描けるような年齢になってからは、最初のうちは赤や緑でグルグルと渦巻きを描いていたそうですが、それがだんだんと戦闘機が敵艦を攻撃するような絵になってきた。お母様は戦争が嫌いなので、『ジョウ君、お花の絵を描かない?』とか、いろんなことをいってみたそうです。それでも戦闘機の絵しか描かないので心配になって、保育園児のころにカウンセリングを受けたこともあると話されていました」
     カウンセラーからは「そんなに心配しなくてもいいけれど、3人目のお子さんなので、もっと目を配ってあげたほうがいい」という旨のアドバイスを受けたという。その場では「はい」と答えたものの、心配が解消されたわけではなかった。
     オンラインで言葉を交わした大門氏にも、強く印象に残る点があった。
    「ジョウ君が『ちえこ』というときの発音が独特でした。多くの地域で『ちえこ』の発音は高・低・低で、『ち』にアクセントがきます。ところがジョウ君の場合は低・低・高で、『こ』にアクセントがきました」
     これについては、調査を進めるなかで穴澤氏の出身地が判明し、その地方では低・低・高というアクセントで発音することがわかった。
    「また、智恵子さんの話になるとジョウ君は涙ぐみ、お母様からティッシュを手渡されていました。自分から交際を申し込んでつき合うことになったのに、特攻で命を落とした。智恵子を守りたい、日本を守りたいという思いだったけれど、特攻するということは別れることなので、(自分から別れるかたちになってしまったことが)心残りだし申しわけないと話していました」

    ウクライナ戦争がきっかけをつくった

     2022年のことだ。
     ある世界的な大事件がジョウ君の気持ちを惹きつけ、過去生の自分を知るきっかけをつくった。その大事件とは2月24日にはじまったロシアによるウクライナ侵攻だ。
     当時ジョウ君は8歳。連日のように現地の様子が報道されるなかで、空を飛び交う無数の銃弾や爆弾、爆撃された施設など、攻撃に関する映像だけに強い興味を示したという。
     また、こうした映像に刺激を受けたのか、携帯電話で戦争関連の動画を検索し、視聴するようになった。あるときは軍歌を聴きながら小学校の宿題をしていたので、驚いたお父さんが「何を聴いてるんや!」と、問答無用で動画を消したそうだ。
    「2023年に入ってからだと思いますが、ジョウ君は以前から気になっていた『ちえこ(智恵子)』を画像検索して、過去生の自分を発見しました」
     大門氏との面談で、ジョウ君はその
    ときのことをこんなふうに語った。
    「(検索結果を)これじゃない、これじゃないって下のほうへ見ていったら、おばあさんの写真で79周年って書いてあって、戦争に関係していると思って『戦争時代、智恵子』って調べたら、穴澤利夫と智恵子さんの写真が出てきて、これがしっくりくると思った」
     穴澤利夫氏とはどんな人物なのか。智恵子さんとの関係も含め、少し情報をまとめてみた。
     穴澤氏は1922年2月13日、福島県耶麻郡(現在の喜多方市)に生まれた。1941年7月、中央大学法学部に在学していた19歳のとき、当時17歳だった智恵子さんに出会い、約半年後の1942年1月に交際を申し込む。
     このとき、すでに太平洋戦争(大東亜戦争)がはじまっていた。穴澤氏は同年10月に中央大学を繰り上げ卒業すると、航空兵を志願して熊谷陸軍飛行学校相模教育隊に入隊。特攻を志願した詳細な時期は不明だが、1944年のどこかの時点だと思われる。それ以前にふたりは結婚を誓っていたのだが、双方の両親は反対した。
     1945年3月8日、穴澤氏は特別休暇をもらって帰省し、智恵子さんとの結婚を認めてほしいと両親を説得。翌9日には東京・目黒の智恵子さん宅を訪ねてご両親を説得し、婚約の許可を得た。特攻隊に志願したことは最後まで話さなかったそうだが、両家のご両親は薄々感じていたかもしれない。
     翌10日未明に東京大空襲。目黒の親戚宅に泊まっていた穴澤氏は、智恵子さんの安否を確認するために智恵子さん宅へ徒歩で向かう途中、大鳥神社で智恵子さんを見つける。互いに生き延びたことを喜びあったが、穴澤氏は勤務地である大宮の飛行場へ戻らねばならない。ふたりで国鉄に乗ったものの、息苦しさを感じた智恵子さんが池袋で降車。これが永遠の別れとなった。
     さて、「智恵子」を発見したジョウ君は、ほどなく穴澤利夫氏のことも知るようになり、YouTubeで検索して動画を視聴するなかで、自分の記憶が穴澤利夫のものだと確信するに至った。特に没頭したのは『特攻隊・穴澤利夫さんと婚約者・智恵子さんの63年目の再会、そして今は天国で一つに?』という動画で、1年ほどの間、毎日のように見つづけたという。
    「その動画には、当時84歳の智恵子さんが、福島の穴澤さんの実家をはじめて訪れ、遺品の軍服に顔を押し当てて泣く場面があります。お父様としては、没頭するのが戦争の動画だけであれば、まあ男の子だから、と思えたかもしれません。しかし、80歳を越えた女性の動画を熱心に見る姿には強烈な違和感を覚えて、いったいどういうことだと本当に心配されたそうです」
     これ以外のことでも、ジョウ君の行動はご両親の理解を超えていた。軍歌を歌う。「大東亜戦争」といいだす。ハセガワ、オオダイラなど、身近にはいない人の名前をいう。大東亜戦争を生き抜いた人の話をYouTubeで長時間にわたって視聴する……。
     ご両親の心配は募る一方で、特にお母さんは、ジョウ君の言動をまったく受け入れることができず、かなり思い悩んでいた。それに気づいたお父さんは「ジョウがあれだけいっているんだから、穴澤利夫の生まれ変わりだと受けとめてあげようよ」と、なだめるように話したという。
    「それから数日後の夕方、キッチンで料理をするお母様のところへジョウ君がやってきて、声を震わせながら『僕の前世は穴澤利夫だ』と語りました。
     その様子があまりに真剣だったので『わかったよ』と答えると、ホッとした様子で『ありがとう』といって泣いたそうです。
     ジョウ君にとっては、それがひとつの区切りになりました」

    (文=文月ゆう)

    続きは本誌(電子版)で。

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    webムー編集部

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