触れれば災いが…「古墳の祟り」/吉田悠軌・怪談解題

文=吉田悠軌 挿絵=森口裕二

    古代の人々の墓である古墳。その数は確認されているだけでも16万基にもなるというが、盗掘され、あるいは平地に戻されて現存しないものも多い。そして、古墳に手をつけたとき恐ろしいことが起こった――という報告も少なくないのだ。

    古墳を掘り起こした男たちの末路

     1897(明治30)年5月、現在の東京世田谷区でのこと。当時「塚山」と呼ばれた野毛大塚古墳の周辺を、下野毛村の住人たちが畑へと開墾しようとしていた。
     その途中、孫三郎・米蔵・仁左衛門ら若者3人が椿の木を掘り起こしたところ、石棺が出土する。開くとその内部は朱塗りで、甲冑をつけた人骨と剣などが見つかったのである。
     すぐに石棺を埋め戻し、役場に連絡したところ、帝室博物館の館員が調査にやってきて、出土品を収集していった。それら副葬品は、現在でも東京国立博物館に保管されている。ただ、ここで話は終わらなかった。
     発掘した若者たちに異変が訪れたのだ。ひとりは「夢のなかに鎧兜をつけて馬に乗った侍が出てくる」とわめきたてるようになる。そして5年後の5月、畑の芋穴に入り、自らの腹を剃刀で十文字に切り、苦しみながら死んでいった。またもうひとりも、時を経ずして病死してしまった。
     この事態を怖れた下野毛村名主は、墳頂に祠を建立、「吾妻神社」として祀ったのだという。
     ただその神社も明治末には寂れ、昭和期には荒れ果てた山林となり、地域の若者の肝試しの場に使われていたそうだ(『野毛大塚古墳周溝緊急調査報告』)。

     さて、若者が石棺を発掘したエピソードは、隣村である上野毛村では次のような民話として伝えられている(『せたがやの民話』)。
     ふたりの青年、平吉と清助が塚山の土を掘り、勾玉や剣、黄金などを盗掘した。
     するとその後すぐ、平吉は血を吐いて死亡。清助は精神に変調をきたし、奇声を発しながら歩き回るようになった。さらには平吉の葬儀を手伝った人々までもが、原因不明の頭痛を起こして寝込んでしまう。
     そのあたりで、世話役の新兵衛が彼らの盗掘を疑いはじめた。清助の家族に事情を問いただしてみたのだが、だれもがかたく口を閉ざすばかり。
     翌日、新兵衛が塚山に登ってみると、そこには古墳に向かって一心不乱に祈る清助の姿があった。彼の拝む先を見れば、ぽっかりとあいた穴から、赤い血がどくどくと噴き出しているではないか。
     驚いた新兵衛に詰問され、ようやく清助は盗掘を白状した。「ずっと穴を埋めようとしているのに、血が溢れて塞がらないんだ」などと涙ながらに訴えてくる。
     新兵衛が必死で土をかぶせると、ようやく鮮血の流れは止まり、穴を埋めることができた。だが気づけば、傍にいた清助の姿が消えている。
     慌てて村へ戻ると、向こうから清助の母親が駆け寄ってきた。彼女は新兵衛を見るなり、こう叫んだのだ。
    「たった今、せがれが、たくさんの血を吐いて死んだ」
     また昭和初期には、目蒲電鉄(現・東急電鉄)が野毛大塚古墳を中心としたゴルフ場「等々力ゴルフリンクス」を建設した。その際、古墳上の祠を解体したところ、工事に携わったもの全員が変死したのだという(『世田谷区民俗調査』)。祠とは吾妻神社のことだろうか。であれば、その石碑は川崎市の某家の庭にひっそりと安置されている。
     そして等々力ゴルフリンクスも、戦争激化に伴い、わずか8年で閉鎖してしまった。

    解題——古墳にまつわる怪異は古来報告が絶えない

     野毛大塚古墳は現在、野毛町公園に保存され、だれでも立ち入ることができる。子どもたちが遊ぶのどかな光景は、ここが東京でも最も有名な古墳怪談の地とは思えない。

     多摩川両岸にはかつて多くの古墳が存在していたが、大正から昭和の宅地開発によって多数の古墳群が調査も行われず破壊された。高級住宅街の田園調布にあった「宝莱山古墳」「観音塚古墳」ももはや原型を留めていない。しかし墓の上の宅地という認識は現代でも続いているようで、一帯エリアでは「古代人の霊が出る」といった怪談がよく囁かれる。
     対岸の川崎市では旅館の敷地内に「白山古墳」があった。増築に際して調査が行われ、「三角縁神獣鏡」など国宝指定される出土品も発掘されたが、最終的には破壊されることに。するとその直後、旅館は火災で焼失してしまったそうだ。

     古墳の祟りというからには天皇陵にも触れておくべきだろう。天皇陵とは、現在まで続く歴代天皇を祀った墓所を指す。現代では基本的にすべての天皇陵は立ち入り禁止、一般人の見学どころか学術調査すら許されていない。ただし確かな記録がない古代の陵については、被葬者が各天皇と対応しているかは疑問視されている。また安徳天皇という特殊事例となると、壇ノ浦から生き延びた「生存説」含め、複数の墓所と怪談めいた伝説が残っている。
     天皇陵の本格的な調査が始まったのは江戸時代後期から。それ以前は周辺住民が気軽に立ち入る、なにものかの墳墓としてフランクに扱われていたケースが多かった。とはいえ禁足のタブーや、それを破った罰が語られなかったかといえば、そうでもない。
     江戸後期の陵墓調査書『文化山陵図』には、いくつかの陵にて祟りが起きたと伝えられる記述が散見される(外池昇『天皇陵の近代史』)。
     元正天皇陵とされる小奈辺古墳の頂上には、石棺の蓋のような、人の手が入った石が置かれていた。しかしそれを掘ったとたん、なんらかの祟りがあって、以後は落ち葉すらいっさい取ることもなくなったという。実際にどのような怪現象があったかは記されていないが、ともかく厳しい禁足・禁伐のタブーが徹底されていたと明記されている。

     光仁天皇陵についてのエピソードは、もっと具体的だ。山陵図調査の少し前、三五郎というものが、そこに陵墓があることを知らず、周辺にて糞尿を処理していた。するとたちまち病死してしまい、さらにその息子も同じ病気にかかり死んでしまったというのだ。

     他にも御霊として祟りをなした早良親王。皇位継承こそしていないが、慰霊のため「崇道天皇」の諡おくりなが贈られた。その墓所とされる「八嶋陵」は、早良親王が自らの埋葬地を決めるため投げた九つの石のうち、八つの石が見つかった地だと伝わる。「八つ石」なる岩石は今も道路を塞ぐかたちで保存され、明らかに交通の邪魔となっている。ただそれをどかそうとすれば、工事関係者が死んだり病気になったりするため触れられないというのだ。

    野毛大塚古墳。現在は公園のなかにあり墳頂への立ち入りも自由。

    知らずに手をつけても祟りが起こるメカニズムとは

     もっとも、これらの陵に本当に各天皇が葬られているかどうかはかなり怪しい。元正天皇陵は幕末の修陵であり、光仁・早良については古墳時代の造営と見られている。しかも昔の民衆には墓所とすら思われず、ただの鬱蒼とした裏山かと認知されていただろう。

     こうした点については、先述した野毛大塚古墳もよく似ている。『せたがやの民話』では盗掘話に変化させられているが、もともとはそこが墳墓とは知らず、偶然に石棺を掘り当てただけだ。

     それでも、祟りは起きたというのだ。

     注目すべきは、その祟りがいつ起きたのかではなく、「祟りが起きたという怪談がいつ語られたのか」ではないのだろうか。古墳の祟りとは、われわれがそこをただの裏山ではなく古墳だと認識した、そのタイミングで発生するように思えるからだ。
     古墳にまつわる怪談は全国各地に点在する。その多くには「古来触れれば祟りのある山と伝わる」といった伝承がつきものだ。では実際にタブーを犯したものが被害を受けた具体例となると、意外に明治など近代のものが目立つ。
     野毛大塚古墳についてのエピソードは、周辺住民の農地開墾に端を発している。その他の古墳怪談も、明治から昭和にかけての宅地造成にまつわるものが多い。それまではうっすらとしか認識されていなかった古墳が、土地開発によって地面が掘り起こされ露見する。
     つまり「発見」と「破壊」がワンセットにならざるを得ない。祟りに見舞われたという怪談は、そこから逆算して生まれてくるのではないだろうか。

    現代の日本では古墳の祟りは起こらない?

     それは天皇陵にまつわる怪談も同様だ。江戸後期、尊皇思想の高まりにより、天皇陵の探索調査・保存運動が熱を帯びていった。当時の史料・資料を頼りに、それまでは昔のだれかの墓あるいはただの小山とだけ思われていた場所が、各天皇陵として「治定(認定)」されていく。すなわち神聖にして侵すべからざる土地となっていく。その時点から逆算して、聖地を侵したものが悲惨な目に遭ったとの話が語られるようになる。
     光仁天皇陵はそもそも陵墓と思われていなかったのに、知らず知らず糞尿の処理作業をしたものが死んでしまった。確かに『文化山陵図』の調査中、こうした怪談を聞き取ったのは事実だろう。
     しかし『文化山陵図』という京都町奉行が主宰した公的調査事業にて、わざわざ奇妙な口碑を取材し採用したのは、それなりの意図があったはずだ。
     古代の墳墓を侵してしまったという「罪」意識は、むしろ近代にこそ高まったのではないか。都市開発や天皇制へと邁進していく時代ならではの、古代の神霊との衝突点だったのではないか。

     逆にいえば、現代ではもう古墳怪談はすっかりと数を減らしている。かつてほど古墳をぞんざいに破壊する開発が行われなくなり、公園のようなクリーンな公共空間にて保存されるようになった。
     そして天皇陵とは「クリーンな公共空間」の最たるものだ。江戸後期に再探索された各陵墓の知定は、明治から現代の宮内省まで引き継がれた。君主制から象徴天皇制へと変わっても、天皇・皇族が祭祀をする空間として、天皇陵は日本にありつづけている。
     ただそこにわれわれはいっさい入ることもなければ、生活で関わることもない。かつての光仁天皇陵のようなアクシデントは起こりようがない。
     泥臭い日常とは隔絶された、「日本」という国家の「公共」を象徴するような場。そこには怪談が発生する余地など、いっさいないのである。

    光仁天皇陵。
    江戸時代の本には、堂々と古墳(塚)を掘り起こすところを描いた絵も残されている(画像=国立国会図書館デジタルコレクション)。
    崇道天皇陵前の道路に現在も残る「八つ石」。
    江戸時代後期になると、尊王機運の高まりとともに「天皇陵」の調査、記録が行われた(国立国会図書館デジタルコレクション)。

    (月刊ムー 2025年7月号掲載)

    吉田悠軌

    怪談・オカルト研究家。1980年、東京都生まれ。怪談サークル「とうもろこしの会」の会長をつとめ、 オカルトや怪談の現場および資料研究をライフワークとする。

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