自動車はなぜ怖かったのか? クルマの都市伝説とホラー映画/昭和こどもオカルト回顧録
黄色い救急車、白いソアラ、赤いスポーツカー……。身近な自動車がなんとなく恐ろしくもあった時代の噂話を回想する。
記事を読む
前回に引き続き、記憶に残る「恐い映像」を振り返る。名作は低予算だからこそ生まれやすいのかもしれない。
前回の本稿では、僕が70年代の後半にテレビのオカルト特番で目にした「呪われた肖像画」の記憶について紹介した。詳しくは該当記事をご覧いただければと思うが、ヨーロッパのとある国のとある古城に飾られた貴婦人の肖像画が、夜になる度に恐ろしい形相に変化する……というネタである。どこかはかなげな印象の中年婦人の肖像画の顔が徐々に歪み、憎悪に満ちた「悪鬼」のような姿になっていく。その過程を早送りのフィルムで見せる記録映像が、10歳かそこらのいたいけな僕の心に消えないトラウマを刻み付けたのだ。このうろ覚えの記憶について、もう少し補足情報を書いておきたい。
「呪われた肖像画」に関して、僕は2000年前後のインターネット普及期にせっせと検索してみたことがあったのだが、それらしい情報はひとつも入手できなかった……という話は前回記した通り。
しかし、現在検索してみると、僕の見た限りではたったひとつだけだが、「あ、コレかも?」と思える情報がヒットする。2005年に「教えてgoo」に投稿された質問である。この質問者は「今から30年ほど前」に「日本テレビ系の心霊番組」で、どこかの国にある「動く絵画を紹介していた」と記している。映像は「コマドリカメラ」によって記録され、絵に描かれた人物の顔が少しずつ変わり、「最終的にはまったく違う人の顔に変わった」とのこと。おそらく僕が見たものと同じ番組のことを言っているのだと思う。
「コマドリカメラ」というのは僕の記憶とは違っている。僕の記憶ではフィルムの早送りで見せていたのだが、この人の記憶ではスチルカメラで連射した写真をアニメーションのようにつなげて見せるものだったようだ。番組内で「コマドリカメラ」という言葉が使われていたらしいので、これについては僕の記憶が間違っているのかも知れない。
投稿者は「この絵画はどこの国にあるものなのか?」、そして「絵は本当に変化したのか?」というミもフタもないことを質問しているのだが、これに寄せられたまともな回答はやはり1件のみ。これが非常に気になった。
回答者は「ありましたねぇ。さる屋敷の屋根裏にしまわれていた肖像画の形相がだんだん変わるヤツ」と書いている。僕の記憶では肖像画があったのは「さる屋敷の屋根裏」ではなく、「ある古城の階段の壁」なのだが、それはともかく、問題は次の文章である。
(絵が変化している最中に)焦げるような「きな臭い匂い」がするというので、調べてみたら(肖像画に描かれた人物は)火事で焼け死んだ人間だったらしいとか。
これを読んで、「あっ!」と声をあげそうになってしまった。いや、「きな臭い匂い」が漂っていたということをはっきり覚えているわけではないのだが、そう、確かに絵が変化していくのと同時に、なにか「もうひとつの怪異」が起こり、それが非常に恐ろしかったことを思い出したのである。「火事で焼死」というストーリーは記憶にないが、絵が変化するときの「匂い」の話はナレーターが口にしていたような気もする……。
「もうひとつの怪異」については、さらに別の情報がある。
「呪われた肖像画」のトラウマ体験から実に約30年、その間、これついていろんな人に聞きまわったが誰も知らず、ずいぶん寂しい思いをしていたのだが、2003年に刊行された小中千昭氏の著作に、おそらく同じ番組の記憶と思われる記述を発見して驚愕した……というところまでは前回書いた。
その小中氏の著作が、2003年に岩波アクティブ新書の一冊として刊行された『ホラー映画の魅力 ファンダメンタル・ホラー宣言』だ。「Jホラー」ブーム全盛の当時、あちこちで耳にしながら、僕ら単なるホラー映画ファンには、その具体的内容がいまひとつわからなかった「小中理論」(映像による恐怖表現の実践的方法論)なるものの全貌が初めて本人によって網羅的に語られた著作であり、刊行時は大きな話題になったし、以後もホラー好きや映像クリエイターたちの間でバイブル的に取り沙汰された名著である。
小中氏が記憶を語っている文章を引用してみよう。氏が子ども時代を回想し、70年代のテレビなどで見たトラウマ的「恐怖映像」を羅列するテキストの一部だ。
「もう一つ恐ろしかったのが、欧米の邸宅にかけられている絵画が変貌しているというもので、絵画にレンズを向け固定された微速度撮影カメラが、現実の何百倍もの速度でその絵の変貌ぶりを記録したものだった。」
まさにこれである! 「ヨーロッパの古城」が「欧米の邸宅」とされてはいるが、小中氏が語っているのは間違いなく僕が見たものと同じ番組だろう。そして僕は、続く次の一文を読んでゾワッとしてしまったのである。
「絵の中の顔が醜く崩れ、背景のチェストの引き出しが徐々に開いてゆく……」
これを読んだとたん、僕のトラウマのさらに奥に長らく隠されていたトラウマが、ズルリと記憶の表面にひっぱり出されてしまったような気がした。いや、これについても「チェストの引き出しが徐々に開いた」ことをはっきりと覚えているわけではないのだ。「変化する貴婦人の顔」の恐ろしさがあまりに強烈で、それ以外の記憶はなにもかも曖昧になってしまっているのだが、「変貌していく貴婦人」の「背後」で、確かに「なにか」がゆっくりと「動いて」いた。それが無性に怖かったのである。
言われてみれば、椅子に腰かける「貴婦人」の斜め左後ろあたりに古風で優美な小型の箪笥があり、「貴婦人」の顔が崩れていくとともに、その箪笥の何番目かの引き出しが少しずつ開いていったような気もする。そこからなにが出てきたのか、そこに何が入っていたのか、番組では最後まで触れられなかったと思う。小中氏の記憶も、そこで途絶えているようだ。
「……という場面だったと私の記憶にはあるのだが、この話を同年代の他者で、やはりその番組を見ていたと記憶している人とすると、顔なんて映ってなかったと言われ、ひょっとしたら私は自分の中で勝手にその絵を描きかえていたのかもしれない、とも考えている。」
「Jホラー」の起点は、諸説あるだろうが、小中氏が脚本・構成・ビジュアルデザインなどを手掛けたオリジナルビデオ作品『邪願霊』(1988年)だとされることが多い。88年といえば、まだ「Vシネ」という言葉すらなかった時代である(東映がオリジナルビデオを「Vシネマ」として発売するのが89年。この名称は、劇場公開をせずにビデオのみで販売・レンタルされる低予算映画の総称のように使用された)。「貸しレコード店」がビデオも扱うようになってから数年、ビデオに特化したレンタルショップが急増し、「レンタルビデオ市場」が全盛期を迎えた直後というタイミングになるだろう。
当時の小中氏は小さな映像性制作会社のディレクターとして、低予算のプロモやPRビデオ、テレビCM、ミニ番組をこなす一方、子どものころから独自に研究していた特殊メイクの技術を買われ(小学生時の頃から十数本の自主映画を撮っていたらしい)、石井てるよし監督のオリジナルビデオ作品『代官山ホラー』に参加、その流れで同じく石井氏が監督する『邪願霊』の脚本を担当することになったという。
『邪願霊』の基本設定は、ある女性アイドルのデビューまでを追ったテレビのドキュメント番組。しかし、その番組は「とある事情」によって放映することができなくなり、映像素材はそのまま封印されてしまった。その禁断のビデオ映像を再編集してお見せしよう……というものである。『ブレア・ウイッチ・プロジェクト』の公開が10年後、『パラノーマル・アクティビティ』が約20年後であることを考えれば、フェイクドキュメント&ファウンドフッテージ形式のホラー作品という発想がいかに先駆的だったがわかると思う(もちろん「フェイクドキュメント」という形式自体ははるか以前から存在するのだが)。
それよりなにより、本作の功績はその後の「Jホラー」の基調となる「心霊描写」を「開発」したことにある。カメラが捉える対象物の背後、あるいは画面の隅になどに写り込んでしまっている「白い服の女性」。旧来の「心霊造形」のように特殊なメイクをしているわけでもないし、光学合成で身体を半透明にしているわけでもないし、奇抜な照明を当てているわけでもない。ただ「そこに人が佇んでいる」という描写でしかないのだが、レンズまでの距離、立っている位置のわずかな不自然さ、そしてピントのズレから来る映像のボケにより顔がどうしても判別できない……といった絶秒な違和感によって、「なにかがおかしい」といった強烈な不安を見る者に突きつけてくる。
『邪願霊』の制作環境は、言うまでもなく恵まれたものではなかったようだ。どうしても映像がチープになってしまうビデオ撮影が前提だし、そもそもオリジナルビデオというもの自体が、まだ海のものとも山のものともつかない商品だ。当然、超低予算ですべてをまかなわなければならない。充分な機材も人手もなく、さらにはキャスティングにスポンサーからの横やりも入ったらしい(笑)。
小中氏は脚本家の範疇を超えて、現場でありとあらゆる作業を手掛けたそうだ。そんな制約だらけの中で、特殊効果プランナーを一任されていた彼が考案したのが上記の「心霊描写」だった。それは苦肉の策でもあったのかも知れないが、ないないづくしの環境で「心霊は映像にどのように記録されるべきか?」、さらに言えば「我々はどんな映像を恐れるのか?」といった根本的なテーマ、それこそ映像による心霊的恐怖表現の「ファンダメンタル」(原理的)な部分について、馬鹿正直なほど真正面から熟考した結果の技法なのだろう。
そして後に、小中氏は鶴田法男監督とタッグを組んだオリジナルビデオ作品『ほんとにあった怖い話』シリーズで、『邪願霊』の「心霊描写」にさらに磨きをかけていく。それらは後に量産される「Jホラー」作品で多くの映像作家によって繰り返し流用され、さらには海の向こうのクリエイターたちにも広く共有されて、やがては「ありきたり」と思われてしまうほどに「消費」されまくることになるわけだ。
なにしろ40年近く前の超低予算ビデオ作品なので、『邪願霊』を今の若い世代が見ても「は?」となる部分が多々あるだろう。しかし、あの映像素材のあちこちに散在する「白い服の女性」に関しては、もはや驚きはないだろうが、誰もが一定の不安と恐怖を感じることと思う。ピンからキリまでの無数の「Jホラー作品」、それらに影響を受けた海外のホラー映画が大量に作られた40年後の現在でも、結局は『邪願霊』の延長線上にある技法以外には、的確に「心霊」を表現する映像手法はまだ「発明」されていないのだと思う。
……今回は昭和が終わりを迎えた直後に公開された黒沢清監督のモンダイ作(?)『スウィートホーム』あたりから、小中&鶴田のオリジナルビデオのホラー作品が好きモノたちの間で噂になりはじめた90年代前半、そしてエポックだった『リング』公開を経てのビデオ版の『呪怨』発売あたりまで、あの頃のホラーブームの非常に特殊な「熱気」について書きたかったのだが、紙幅が尽きてしまった。
60年代までは一応細々と続いていた「納涼怪奇映画」といったB級興業の伝統もとっくに途絶え、日本産の心霊ホラー映画などというジャンルが存在しないも同然だった80年代が終わって、平成に入った途端にオリジナルビデオという「日の当たらない場所」を震源としてジワジワと広まっていった国産ホラー映画の振動。当時、ビデオ作品を細かくチェックしていたわけでもない門外漢の僕には、あの頃の唐突なブームの異様な盛りあがりに対しては「なんだこれは? 何が起こってるんだ?」という驚きと戸惑いがあった。同時に、久しく目にしていなかった「子ども時代にテレビで見た心霊映像」が、突如、大量によみがえってきたような感覚に捉われたのを覚えている。「映像が与える恐怖」を再び提供してくれる人々が続々と出てきてくれた、という奇妙な喜びがあったのだ。それらの作品の多くには、確かに70年代のテレビで流れた「心霊映像」の記憶がさまざまな形で刻み付けられていた。同じような「傷」を持つあの頃の子どもたちが成長し、ついに作り手側として活躍しはじめたことに興奮を感じたのである。
次回は、そのあたりのことを思い出してみたい。要するに、あっという間に終わってしまった極めて特異な一時期について、「あの頃はおもしろかったなぁ。もう一度ああいう時代が来ないなかぁ……」といった情けない昔話をしてみたいのである。
初見健一
昭和レトロ系ライター。東京都渋谷区生まれ。主著は『まだある。』『ぼくらの昭和オカルト大百科』『昭和こども図書館』『昭和こどもゴールデン映画劇場』(大空出版)、『昭和ちびっこ怪奇画報』『未来画報』(青幻舎)など。
関連記事
自動車はなぜ怖かったのか? クルマの都市伝説とホラー映画/昭和こどもオカルト回顧録
黄色い救急車、白いソアラ、赤いスポーツカー……。身近な自動車がなんとなく恐ろしくもあった時代の噂話を回想する。
記事を読む
「心霊写真」という新たなる恐怖の発見と衝撃/昭和こどもオカルト回顧録
昭和の時代、少年少女がどっぷり浸かった怪しげなあれこれを、“懐かしがり屋”ライターの初見健一が回想する。 今回は「心霊写真」を回想。今見ればなんてこともない写真が、ページに触れるのも憚られるものに見え
記事を読む
「人体自然発火映画」の不条理と陰謀論/昭和こどもオカルト回顧録
前回に続いて「人体自然発火」の恐怖を回想する。今回のテーマは「映像で見る人体自然発火」。この怪現象を描いた映画がどれも「陰謀論映画」になってしまうのはなぜなのか?
記事を読む
龍がのたうち回る台座の秘密とは!? 宮崎・観音寺「龍王観音」が放つ日本一のインパクト/小嶋独観
珍スポ巡って25年の古参マニアによる全国屈指の“珍寺”紹介! いざ、今年の干支「辰(龍)」にまつわる珍スポットへ! 宮崎県西都市・観音寺にある「龍王観音」像の秘密とは?
記事を読む
おすすめ記事